護国庵 光忠寺茶所跡

寺の古文書の中に、以前から気になる護国庵という接待所(1778〜1873)の図面があり、私は明治時代まで光忠寺の境内にあるものだと思っていましたが、7年前に市文化財保護委員の方が出された「山陰古道・西国巡礼道を歩く」を有難く頂きました。その中に護国庵の事が記載されていました。その本によると巡礼者の要望により光忠寺が京都(善峰寺)から丹波亀山(穴太寺)の巡礼道の寒谷いう所に巡礼者の接待所として、建立されたことがわかり、以前からお参りに行かなければと思いながら行けず、やっと昨年の12月に「護国庵跡」を確認することができました。亀岡市の地図を見ても道がなく不安でしたが、意外と道(西国巡礼道?)も大きく分かり易い所でした。次回は住んでおられた真教という尼僧様の供養に行きたく思います。

 

浄土宗葬送儀礼講座3

第3回「法話の実践」~通夜説教いろは~  平成27年12月12日13時〜16時
浄土宗布教師養成講座指導員 城平賢宏 先生

浄土宗の教えの三要点 所求(極楽浄土)所帰(阿弥陀佛)去行(念仏)を中心に法話者の心構えや法話構成の資料をもとに、受講者に分かり易く法話を交え講義をされました。

 

葬儀・家族葬・直葬5

葬儀に思うこと5 直葬
直葬とは通夜や葬式を行わず、火葬を行うことです。その内容には経済的な事情や身寄りのない方がやむなく行われましたが、最近では亡くなられた故人の遺志で直葬にされる方が増えています。東京では葬式全体の20〜30%が直葬といわれています。全国平均的では10%程度ではないかとも言われています。当寺でも先般檀家の方で、経済的な理由で通夜葬式が出せず、枕経と最後のお別れのお勤めを住職と奥様と親戚の方3名でご遺体の前で致しました。その後は、役所から連絡を受けた葬儀社により火葬にされました。直葬になる背景には、少子高齢化、組織共同体の弱体化、葬儀費用の負担増、宗教者への不信感などさまざまな事が考えられますが、直葬だからこころがこもってないともいえない。立派な祭壇だからこころある葬式ともいえない。要はこころからのお見送り(お別れ)と供養ができればいいのではないでしょうか、私たち仏教徒とは仏さまの教えが心の支えとなり人生を歩んでいくことができなければなりません。それによりその宗派による儀式作法の意義ある葬送儀礼(葬儀式)になるわけです。今の私たちには「死の自己決定」「葬送の自由」があるわけですから、教会での結婚式も自由であり、葬式は仏式でも自由ですが、生きる上で信仰が心の柱となり基盤とならなければ本当の意味での葬式もわからないのではないでしょうか、個性化が進み無宗教葬、音楽葬、お別れの会、樹木葬等社会の変容と共に新しい葬送の方法は選択できますが、葬儀は人生の締めくくりの儀式であり、仏教的(浄土宗)には浄土での成仏であります。葬式仏教は仏教がその方に生きる指針を与えてこそ意義のある生きたものとなるように思います。私たち住職・僧侶はそれを忘れてはならないと思います。一ヶ寺の住職としては、限られたことしかできませんが、檀家の皆様には機会があるたびに問いかけなければならないと思います。一応今回をもって「葬儀・家族葬・直葬」についてのわたしの思いを終わりとさせていただきます。

葬儀・家族葬・直葬4

葬儀に思うこと4
某地方新聞が「葬儀について」昨年に連載をされていました。そのアンケートの中に「あなたの人生に宗教が必要?」→そう思う65%そう思わない33%不明2パーセント、「あなたは死ぬことが怖い?」→少し怖い42%余り怖くない33%全く怖くない11%非常に怖い12%その他2%、「葬儀費用をどう思いますか?」→こんなにかけたくない61%このくらいならいい37%不明1%、「自分が死んだら葬式をしてほしい?」してほしい67%してもらわなくていい30%不明3%、「あなたの葬儀はどうあってほしい?」→質素な葬儀71%盛大な葬儀14%その他15%、と回答がありました。その他色々とアンケートの問いかけと回答がありましたが。その回答(質問の内容にもよるが)のパーセントが今の葬儀に対する世相が現われているのではないでしょうか、葬儀式が家族葬や直葬など小規模化に至る原因は葬儀式の形骸化であり、経済的な問題など様々な事が考えられます。家ではなく個性化が進みまた死生観や人生観をなど考える事なく世間との関りをもたず、煩わしいはことは避ける傾向にあります。仏教の葬儀式は通夜、葬式、中陰、年回と残された家族と共に死者を祖霊として供養します。亡くなればそこで関係が無くなるのではなく、死後も年回法要が続き供養し、残された家族も供養と共に仏道を深めていくわけですが、現代は寺と檀信徒の関係でも教化は十分とは言い切れません。ましてや寺と一般社会の関わりとなるとほとんど関係がもてないわけです。「葬式仏教」と揶揄され批判をされるのは、、住職と遺族、参列者の考えが葬式に含まれる「葬送儀礼」の意味が共有できないからです。、「形だけ」の葬儀式であり、その葬儀式に多くの費用や時間をかけることに疑問をもたれることは当然だと思います。普段は煩わしさやさまざまなつながりを切ろうといていますが、現実は親戚や知人、会社、町内等多くの方達とつながりの中で、わたしたちが存在している事実をこの葬儀式で知るわけです。いのちの尊さや人とのつながりを改めて気づかされる「葬儀式」でありたいものです。また寺の住職として、人間関係の絆や縁が薄くなった現代だからこそ、これからの葬儀はどうあるべきか、永い歴史の中で仏教は葬儀と深く関わりを持ち、その時代の人々の悲しみ苦しみや死者に対する恐れから起こる宗教的強い願いに応え、「葬儀」という儀式により心を癒しやすらぎを与え仏の道を示してきました。私たち住職や寺が、大きく変わろうとしている現在の葬式に「葬儀とはどうあるべきか」を問いかけ、「何ができるのか」を考えなければならないと思います。

浄土宗葬送儀礼講座2

亀岡組研修会ー葬儀式②ー平成27年11月7日 亀岡組大円寺住職 大澤 亮我先生
今回は枕経から通夜までの内容です。枕経はいつどうのようなかたちで行われたのか、江戸時代の幕府の寺請制度ではじめられたのではなく先に枕経(枕念仏)があり、そこに検葬(宗門寺住 持から死後死者に頭剃刀を与え戒名を授ける事)が付加さたものです。また入棺前に住持が来て死体を点検(これは傷死毒殺等にては無きや否やを検するにて世法に関わりたる事なり)し検葬(邪宗改めの葬儀)が行われた。当時の寺の住職は検僧葬の役割がありました。また臨終行儀での枕念仏が行われ、傍人の伝「その人(死者)のために念仏し懺悔する」が数名の人で、最後の看病をしながら、病者の息に合せ念仏が称えられた。資料は良忠「看病用心集」、徹心葬送次第集「無縁集」勅伝等を解説されました。

 

葬儀・家族葬・直葬3

葬儀に思うこと3
今から15年ほど前に遠縁の親戚で禅寺のご老僧が亡くなられました。その葬式に先代(老僧)と私住職とお参りに行きましたところ、本堂での葬儀の飾り付け準備は住職のもと檀家一同で準備を行い、本堂内は白い布で覆いその他の飾り付けは一切なく質素ではありますが、通夜・本葬と厳かに禅宗の所作作法で葬儀が執り行われました。この葬式の司会は僧侶の方で、葬儀の式次第(法要の概要・流れ)は配役の僧侶の方が行われ無事葬式が終わり喪主(住職)の御礼の挨拶(気持ちのこもった言葉)で、お参りの皆様には十分気持ちが通じたことと思います。この葬儀の主役は「故人・ご老僧です。」住職のもと檀家と近隣の僧侶の方達の協力で行われたこころ温まる葬儀でした。いまでは共同体での葬儀がそれぞれの個人中心の葬儀になり、すべて葬儀社任せスムーズに事が進めばそれでよしとし、ご遺体は長年住んだ家には帰ることなく病院から直に葬儀社に送りそれが当たり前になったように思われます。故人への思い(敬慕)が薄れ、形の上で事が進めば、責任が果たせたと思われるのでしょうか、なにか寂しい思いがします。個性化多様化が進み、経済的な事情も踏まえ、葬儀の大小にはこだわらず、故人にとってこころ温まる葬儀とはどういう葬儀をいうのか、「誰々さんの葬式はあの方の個性が出てた葬儀だ」「祭壇が花で覆われた綺麗でモダンな形式であった」とか要するに、自分のできる限りの思いで感謝を込め故人とお別れをし、合掌のこころであれば、形式、大小関わらずこころ温まる葬儀ではないでしょうか、またできることであれば、ご自分の葬式について、生前中に夫婦、親子で話しをし、実際に葬儀社で二つほど見積を取り調べておけばおよその経費がわかります。また菩提寺があれば「葬式」の導師等に関わる布施もお聞きになれば、住職さんも教えて頂けると思います。私たち人間はとかく死を忌み嫌い、死を現実の自分から遠ざけ目をそらします。健康であろうが、若いからまだまだ大丈夫ではないのです。死を考えることは生きることがより深く意味ある人生を歩むことができるのではないでしょうか、今日一日に感謝をし精一杯生きること、毎日がこの繰り返しです。私は寝るときには十回の念仏起きれば十回の念仏を称えています。目が覚めたら与えられたもう一日に感謝、南無阿弥陀仏

 

浄土宗葬送儀礼講座1

当寺本堂にて平成27年10月10日13時〜16時公開講座が遠近のご住職や若い僧侶の皆様が参加され法務研修が行われました。今私たちが葬儀で行う意義作法(葬儀式の典拠)がお釈迦さまの事が書かれた大般涅槃経 大正①206〜207や仏説浄飯王涅槃経大正14〜782の中から、導師の所作や看取り・湯灌・納棺・下炬・火葬荼毘の典拠があると解説されました。よくテレビで「どこかの住職・僧侶が仏教は昔葬儀をしていなかった」とよく言われますが、そこを「私も知りたかったので」他の過去の資料(法然上人の没後起請文・観無量寿経第16巻の一説を交え説明をされました。)私たち住職ももう一度浄土宗の葬送儀礼を仏教経典の典拠や本来の意味を勉強しなくてはなりません。仏教と葬送儀礼はお釈迦さま時代から深い関わりがあり、また浄土宗にも中国の祖、善導大師の葬儀(宋高僧伝)や法然上人の没後起請文と日本仏教も十三仏信仰が信仰され昔から葬儀や年忌があり亡くなられた人々を供養されました。 講師 法儀司 大澤亮我先生 亀岡 大円寺住職

※奈良時代の南都六宗「三論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗・律宗・華厳宗」(仏教の教理研究する教団というよりは集まり・派)は鎮護国家として、仏教を取り入れた国の管理する官僧(官僚僧)は葬儀に関わることができなかった。但し私度僧としてその時代でも葬儀に関わった。昔とはどの時代を言われるのか?

葬儀・家族葬・直葬2

葬儀に思うこと2
当寺でも檀家や信徒の中に家族葬や直葬がありました。その一例を紹介したいと思います。その方は生前には当寺の本堂諸堂の再建に貢献された遠方ではありますが、当寺の法要行事にはその都度御先祖の供養をされていました。3年前の棚経の時に、相談を受け自分が死亡した時には葬儀場での葬儀(告別式)はせず、寺で法要形式の葬儀をしたい旨を聞き、その後2回程相談を重ね住職も了解をしました。亡くなられた時には本人の希望通り病院から一旦は葬儀社の安置室で住職のもと枕経をして、翌日火葬(荼毘)してから、夕方お骨は当寺にお迎えしその日に通夜(灰葬回向)をして、翌日は本堂にて葬儀(本葬)をしました。もちろん寺での司会や葬儀に関わる準備はなく普通の法要形式で葬儀をしました。奥様やご子息は本人の希望でもありましたので、納得し浄土宗の意義作法で、厳粛な葬儀ができました。お参りは親族ご親戚のみの20名ほどでした。もう1件はこの方も生前にはご本人の先祖の供養を彼岸・盆と先祖の供養はされていました。また本堂諸堂再建の時にも協力も頂きましたが、ご本人の意思で、葬儀はぜず、そのまま火葬にするよう奥様とご子息にも遺言として言われていました。その後その方は亡くなられて、1ヶ月経ち奥様とご子息が寺に相談に来られ住職がご本人の死亡を知ったわけです。相談とは「俗名のままではどうも落ち着かないと戒名が頂きたい」ということである。亡くなられたときは、必ず住職に連絡を頂くことを伝えました。看取り(臨終の念仏)から枕経・通夜・葬儀その後の供養と法要の意味を色々と説明をしましたが、日頃からの付き合いがいかに大切な事か改めて思いました。住職の思いと檀信徒の皆様の考えが通じ合わないこともございます。色々な葬儀がありますが、質素ではあるが、厳粛なこころある葬儀ができるよう親が子に伝え、菩提寺の住職にも事前に相談して頂ければ色々と「アドバイス」ができます。お気軽にご相談下さい。浄土宗の「縁(えにし)の手帖」は、寺と檀信徒の皆様と、生者と死者と、また親と子との縁を結んで頂く手帖です。
原価(100円)でお分けできますが、浄土宗の檀信徒用に合わせたものです。寺まで連絡下さい。

葬儀・家族葬・直葬1

葬儀に思うこと1  平成27年10月5日

近年、社会の変容と共に、特に地縁や血縁が希薄化し家族制度が崩壊して、核家族が進み葬式も大きく変わってきています。自宅での葬儀が無くなり葬儀会館で多く行われています。多種多様な考えがあり葬式や結婚式の冠婚葬祭にも個性化し簡素化になりました。当寺の檀信徒の方もほとんどが葬儀社での 葬儀であります。以前は自宅葬が主で町内や親戚の協力で事が進み葬式が無事終わりました。各自役割があり「絆」があったように思います。今ではすべてが葬祭業者の指示で、葬式に関わる遺体の処理、運搬、日程の決定、通夜、本葬、その後の中陰の初七日、食事、会葬者のお返しの品等がスムーズに進むが、喪主や亡くなられた方の思いがあるのか、それ以前の問題なのか、喪主の方もそんな余裕もなくその時その時判断を迫られるわけです。葬儀に関わる経費が予想以上にかかる場合が多いようです。また宗教者に渡される布施も様々です。経済的な理由や葬送の自由の多様化が進み家族葬・直葬・無宗教葬・音楽葬・お別れの会等を前面に打ち出す葬儀社も多く「終活」などもマスコミ等で取り沙汰されています。葬式も形骸化し本来の意味が失われています。葬式は死者を葬る一連の儀礼を「葬送儀礼」と言い、略して葬儀と言います。葬儀の「葬」とは遺体の処理もう一つは生きてきた人の死を社会的に知らせる心あるお別れの「喪」の二つの意味があり、またそれぞれの信仰する宗派で厳粛な葬送儀礼が儀式として行われます。浄土宗では枕経でお剃度作法(本来は生前に授戒道場を受け仏教徒として戒名を授ける)をして、阿弥陀佛の西方極楽浄土へ往き生まれるための葬儀です。当寺も長い歴史の中で、檀家制度や慣習に甘んじた事も大きな要因であると深く反省しています。皆様もご自分の事として、夫婦、親子送られる方送る方それぞれが納得のいく葬儀をして頂きたいと思います。生があるならば必ず死が来るのです。法然上人ご法語の中に自然・法爾(動かしようのない自然の道理です)ただひたすらに念仏さえ称えれば、阿弥陀佛の来迎は「動かしようのない自然の道理」であって、疑いありません。「法然上人のお言葉です。」

 

 

縁「えにし」の手帖

近年、葬式の準備や墓地を契約される方が増えています。これを就職活動に例え、人生の終「つい」の活動として、終活「しゅうかつ」と呼んでいます。団魂世代の方が定年を迎える時代に突入し、様々な形でその方達を対象に商戦が繰り広げられています。この終活ブームは団魂世代だけじゃなく、先が見えない経済不況の中、家族のあり方の変貌もあり、若い世代の方もさまざまな人生を選び、ご自分の終を見据えた人生を考えた方が増えています。この度、浄土宗「浄土宗総合研究所」から『縁の手帖』が出版されましたので、先日の別時念仏会の後に出席された檀信徒の皆様に配布し説明を致しました。
この縁の手帖は、「つながりの中にある生と死」をキーワードに、ご自分の生老病死について向き合い、周囲の方々と話し合いながら、自分らしい旅立ちの準備を目的としています。一般的なエンディングノートとは異なり、浄土宗の教えを生かした教化ツールとなっています。寺院と檀信徒の皆様が極楽往生という死生観を共有し、私たちの生と死が縁「えにし」の中にあることを実感し、ご家族の皆様の縁が深められれば幸いに存じます。