お寺あれこれ 14

靖国神社に思う 4
靖国神社には戊申戦争以降の国事に殉じた戦没者がお祀りされていますが、靖国の神霊になるには天皇の裁可が必要でした。太平洋戦争で一挙に戦没者が増えましたが、靖国に祀られるまでは人霊で英霊でした。そのため実際には靖国に祀られる以前の葬儀はそれぞれの死者の家の宗教によって行われました。当時の神社での公葬は禁止されていました。日本兵が戦友と別れる際に「靖国で会おう」と誓ったことから靖国神社は日本兵の心のよりどころされましたが、実際のところ父母や兄弟親族のもとで、故郷の寺や自宅で葬儀が行われました。私だけの考えかもしれませんが、明治維新は、世界的にも激動の中日本が荒波の中に巻き込まれ、新政府側も幕府側も新しい日本をつくっていく過程で多くの尊い命が失われました。そうい意味で幕府側(佐幕派)の戦死者(4707名 会津藩 妻娘194名)が靖国に祀られてないのが、どうしても私自身の心では許されないところです。もう一点はA級戦犯になられた方が靖国に合祀されたことは、戦後の事ですから国の管理するところではなく一つの宗教法人靖国神社が判断されたことです。日本国憲法で信教の自由があり、国民一人一人が自身の考えで「A級戦犯合祀」を考えお参りしたらいいことです。信教の自由の中で一つの宗教法人の考えで決断された事に、何ら問題はないはずです。にもかかわらず戦前からの慣習で首相や閣僚が「戦没者慰霊」として靖国神社を国の慰霊施設の中心的施設として参拝することが昔の国家神道がいまも生き続けているように思われています。日本の植民地統治のあった韓国や戦争をした中国だげでなく2年前には過去に戦争はしたが同盟国の米国までが「失望した」と声明を出しました。私たち日本国内にも靖国神社の戦前の国家神道がいまも生き続けているように感じる方もおられるでしょう。中国や韓国が外交問題にするから参拝を控えるとか海外の顔色を見て参拝の時期を変える玉虫色では対等な外交とは思いません。今日もニュースで多くの国会議員が靖国神社に参拝される報道がありましたが、政治家の信条と信念をもって参拝をされた事と思いますが、国安かれと平和を誓い非戦の思い「旧国家神道の過ち」を忘れないで下さい。私が本山で奉職した間もない頃に、岸信介元総理が大殿(本堂)に一人静かにお参りをされていたのを今も強く記憶に残っています。なぜ一人なのか一国の総理までされた方が広い本堂の外陣中央に正座して静かにお参りをされた姿が、今でも目に浮かんできます。(警護する者もいない)本山も担当者がいない突然のお参りであったように思います。1947年(施行)に日本国憲法では第20条において、○信仰の自由を保障し、政教分離原則を挙げています。信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。○何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。○国及びその期間は宗教教育その他如何なる宗教活動もしてはならない。首相の参拝については裁判で争われていますが、各裁判所の判決は参拝の際の玉串料などの公費での支出についてのみ合憲・違憲の判断をしており、参拝自体が違憲であるという判決はないのです。『ことなった宗教・信条を持つ者が、その違いを認め合い、相互を尊重しながら、その存立を互いに保障し合う立場でもあります。ー略ー信教の自由とは、如何なる宗教を信じることも、それが人倫に悖るものでない限り、国家が害してはならないという思想であると同時に、信じない自由をも保障する思想です。それが国家によって保障されるためには、国民相互の間で守り合う思想が働かなればなりません。ー略ーあらゆる信仰者と不信心者が連帯したとき、未来は開けます』と大法輪カルチャー講座「幕末維新と仏教」奈倉哲三氏が総括されています。戦後70年を機に日本における現在の靖国神社の政治的位置付けの統一見解を出し、私自身は仏教の「怨親平等」の崇高な考えで「すべての敵味方を超えた全戦没者」を祈る国の慰霊施設を建てて頂きたいと思います。靖国神社に思うー終

 

お寺あれこれ 13

靖国神社に思う 3
3年前島根県隠岐の島西郷町へ親戚のお葬式に弔問したとき、時間があるので西郷町を散歩していますと、小学校付近に高台の墓地がありその一角に十字架の墓碑がありました。説明板を読むと「日本海海戦 露軍軍人の墓」と書かれたので、日本海海戦の後この隠岐の島に漂流した8名のロシア兵の遺体を島民が手厚く埋葬供養したそうです。その後露軍の墓を老人クラブの皆様で整備をされたことを読み、手を合わせた事を思い出しました。この隠岐の島は、明治元年には新政府や藩ではなく独立した島民自治の激しい廃仏毀釈があり、寺院や仏像が破棄され寺の領地まで奪い取り農民に安い価格か無償で分け与えたところです。島民自治の幹部である神道家や国学者の指導する宗教闘争と土地闘争でもありました。話はもどります。露軍軍人墓地を供養した島民は「霊界に国境はなからん」と明治時代の厳しい統制下のなかでも敵国の軍人に敬意を払い、埋葬供養したことは、人道としてすばらしい行いで日本人の誇りです。靖国神社の前身である招魂祭は新政府側の魂だけしか祀らない極めて偏った考えで旧幕府側の魂をお祀りしなかったのです。『味方の魂だけを招き祀るというこの祭祀は、それまでの神道祭祀にも決してなかった日本史上初の、エゴイズムむきだしの権力的祭祀でした。神の国日本に一命を捧げた者を美化したため、その対極に、3倍近い同法が「賊徒」として殺戮されていくのです。戊辰戦争で戦死すれば「王事に身を尽くし」た者として招魂するから、と「官軍」兵を煽ったことを思うと、これがやがて「靖国」の思想となり、戦争遂行体制を支えるものとなっていったのだ、と思わざるを得ません。』とまた『維新変革の主導権を握った政治グループと彼らを押し上げていった尊王思想家たちは、この天照大神こそが記紀神話中の皇祖神なのだと喧伝し、天皇を神と仰ぐ特異な思想を国民一般にまで押し広げたのです。ー略ーキリスト教を基盤とする欧米列強に負けない強国をつくるための国民精神の統一が、頂点の皇室祭祀と天皇家の信仰生活の改変をも含めて図られ、天皇を一気に神にまで引き上げていったのです。天皇を神としたことが日本史にとって大きな不幸となったのは、この思想が極めて特異な排外主義的なナショナリズム(民族主義)だったということです。欧米列強すべての国で、国民の多くがキリスト教を信仰しているという事実は、反面、世界の宗教としてのキリスト教と、それぞれの国家のナショナリズムはまったく別ものである、、ということを意味しているのです。』と大法輪(幕末維新と仏教)で奈倉哲三(鶴見学園女子大学文学部教授)氏が言われています。明治維新という変革期に幕藩体制が崩壊し明治新政府が近代国家をつくるため急速に作り上げた神道国家を中心に軍国主義者たちが欧米列強国に負けない国をつくろうとしたことを知らなければなりません。「靖国神社」は「夢も希望もある若者(兵士)や一般国民までが戦争で無残に亡くなられた歴史の事実を」認識しなければならない。そこに神霊としてお祀りしてあることはなんら問題はなくお参りしたいと思いますが、ここのところをしっかりつかんでお参りしないと「戦争は繰り返されます」御魂の供養にならないと思います。戦後日本を占領したGHQは1945年靖国神社を焼き払いドックレース場をつくる計画をしましたが、賛否両論が巻き起こり収拾がつかなく、ローマ法王教王庁代表のブルーノ・ビッテル神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン神父に意見を求めた。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国のために死んだ戦死者に対して敬意を払う義務があると言える。戦勝国、敗戦国を問わず、平等の真理でなければならない。」とし靖国神社を焼却することは連合国の占領政策に相いれない犯罪行為である。」とまで言ったという。そして次の言葉で締めくくった。靖国神社が国家神道の中枢で間違った国家主義の根源であると言うのなら排すべきは国家神道という制度で靖国神社ではない。我々は信教の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと 国家のために死んだ者は、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言するものである。この進言によって靖国神社は焼き払いを免れたという。バーン神父もビッテル神父も同趣旨のことを進言された。という逸話が語られています。続く

お寺あれこれ 12

靖国神社に思う 2
政府軍側だけの戦死者を招魂した靖国神社(東京招魂社)の建立場所は、「旧幕府軍の歩兵駐屯所です。つまり旧敵地です。国事に殉難する覚悟で戦いながら、同士を失って勝ち残った薩長兵や、殉難者の犠牲で権力が樹立できたと考える新政府官僚の偏った考えです。かつての敵地に魂を招くことこそ、勝利を確信し、殉難者の無念を晴らすにもふさわしいと考えたのです。-略―もしも仏教怨親平等思想の考えで供養するならば、供養の対象となった1万余もの魂が排除され、彼らの命を奪った側にいた魂だけ神となったわけです。その選び分けの思考基準は、招魂の際の祝辞に端的に表れています。天皇の大御詔に困りて軍務管知事宮嘉彰白さく。昨年の伏見の役より始めて今年函館の役に至るまで、国々の戦場に立ちて、海ゆかば水芙付屍、額には矢に立つとも背には、と言立て・・・3588名の魂を招き降ろした祭儀の最も中心的な思想がここに凝縮しています。万葉集の「海ゆかば水漬屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺こそ死なめ、顧みはせじ」下の句をさらに強烈な方向へ転換させています。海へ行こうとも山へ行こうとも天皇のためには命を捨てる。敵と相対すれば必ず正面から戦い、背を向けずに死ぬまで戦う。こう誓って戦死した「魂」を招いたというのだ、というのです。この招魂祭から70年後、大伴家持の歌に信時潔が曲を付けた「海ゆかば」が世にでます。」《大法輪カルチャー明治維新と仏教》から抜粋ー武士道を捻じ曲げた軍国主義者と一部の政治家によって多くの若い兵士や国民が亡くなられたことは絶対に忘れてはいけないことです。日清戦争、日ロ戦争、台湾・韓国植民地統治、満州事変、太平洋戦争と突き進み、現在の靖国神社には国家のためにお亡くなられた方々が246万6千余の神霊として祀られています。東京招魂社は一般神社とは異なる存在で数々の不安定要素があるため正規の神社に改めようとする軍部の要請で、明治天皇の裁可を得て、明治12年(1879)6月1日に「靖国神社」と改名し別格官幣社となり明治政府から国家(内務省)が管理し、大日本帝国陸軍と同海軍が祭事を統括しました。戦後は信教の自由や人権の保障がある日本国憲法「民主主義国家」となり、国家の管理から東京知事の承認で靖国神社は単立宗教法人となりました。(神社本庁の包括団体ではない)私は一度も靖国神社へお参りしていない。戦場に行かれ無事帰還された兵士経験者が必ず「絶対に戦争を起こしてはならない」言われる、このことば「非戦」に尽きるのである。しかし明治維新という政体変革のところ250年続いた幕藩体制責められる側と新政府側責める側もともに外国の力に頼るのをよしとしない有力な骨のある指導者がいました。日本国を思う先人の努力があってこそ日本が植民地にもならず、近代国家にもなりました。今の私たちは民主主義国家で当たり前のようになに不自由なく生きていますが、この自由を与えて下さった先人の努力と心を忘れてはならない。政治にも自分の考えを持ち選挙に投票に行く責任があります。政治家にも責任があるが、国民の政治に対する意識の低さが国家をだめにしてる。大法輪「仏教の眼・リレーコラム」仏教から発言。→『紀州高野山奥ノ院には文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で戦死した者を供養するために島津義弘が建立した「高麗陣敵味方碑」がある。敵味方の差別なく死者はすべて絶対平等であるという慈悲心にもとづくものである。こうした「怨親平等」は仏教の崇高な思想である。また仏教で三界万霊を供養するのもどうようである。自国の戦没者だけに限らず、かつての敵味方を超えて全戦没者をー民間人まで手厚く合祀するメモリアルが、わが国でも世界に先駆けてできないものか』とすでに12年前に真言宗智山派管長の宮坂宥勝(名古屋大学名誉教授)師が発言されています。私もこの考えに賛同する考えです。靖国神社は明治から先の大戦までの多くの戦没者が神霊としてお祀りをされていることを私たち国民が歴史を知るうえで必要です。現在の靖国神社は一宗教法人ですから、国の慰霊行事に使うのは色々な問題があるので、世界で唯一の被爆国である日本が戦後70年のこの年に(平和を祈る施設)をつくる意思を表明できないものか。明治維新から70年が終戦(昭和20年)です。それから今年が70年である。なにか不思議な年回りを感じます。続く

お寺あれこれ 11

靖国神社に思う 1

ここ何年も前から首相の靖国参拝が問題になっている。靖国神社とは今の私たち日本人にとってどのような神社なのか、隣国の中国や韓国から第二次世界大戦の東京裁判でA級戦犯になられた方が合祀された事への批判 抗議がある。また領土問題や慰安婦問題に絡ませて首相の靖国参拝を外交問題に発展させている。終戦から70年が過ぎたが、過去に日本が侵略戦争を行った事を考えると当然かもしれない。しかし日本だけが首相や政治家が靖国神社へ参拝をすると批判がいくどとなく繰り返されるのはなぜなのか、今の日本は平和である。茲にいたるまで多くの国難に立ち向かわれた先人たちの血のにじむ心「国を憂う」とお国のために命を懸け亡くなられた戦没者の犠牲が土台となり、今の平和な日本社会がある。国事に殉じた死者の霊にお参りするのは当然な事である。首相や国会議員の参拝が過去の歴史を変え軍国主義肯定に通じるというのはあまりにも短絡的な考えである。中国や韓国の非難抗議は内政干渉である。戦後の靖国神社は一つの宗教法人でありメモリアルパークではないが、戦没者に手を合わせお参りされる方は「非戦の思いで平和を願いお参りされている」特定の宗教を超えている思いがします。他の国ではメモリアル・パーク(共同墓地)へその国の最高責任者である首相や大統領が参拝するのは当然の事として行われている。いままで私は過去の歴史も靖国神社の由緒も分からず、マスコミが取り上げる靖国に関するニュースや新聞の記事を腹立たしい思いで読んいた。のど元を過ぎれば後は忘れるのか世の常である。 マスコミも他国の非難抗議があるときだけ報道するが、深く掘り起こし意見を述べないので、尻切れトンボの中途半端なままで終わってしまう、日本も平和過ぎて平和に無関心な国民が多い。アメリカとの安保条約があるが、自分たちの国は国民自ら守る意思をもたなければ「自由な国日本」は守れないのです。世界の国々と平和な国際社会を造りすべての国の人々と共存共栄をはからなければならない時代である。寺の住職は毎朝お勤めの際に「怨親平等」や「三界万霊」と過去の戦没者を供養回向をしている。怨親平等や三界万霊とは、過去の戦争で亡くなくなられた敵味方くべつなく死者をすべて平等に供養をする思想である。お釈迦さまの説かれた「非暴力主義」の教えである。私自身他国から言われる事なく一人の日本国民として靖国神社を調べ考えたいと思います。靖国神社の創建は、明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は歴史的大改革(明治維新)にあり、250年続いた鎖国政策をとっていた幕府は厳しく外国との交流を制限していたが 西欧諸国やアメリカがアジア諸国を植民地として進出し、日本にも開国要求を強め開国派と鎖国派の対立が激しくなり、国内は大きな混乱に陥り、 徳川幕府はそうした危機的状況を乗り切ることが出来ず、政権を天皇に返上し日本は新たに天皇を中心とする近代国家として明治政府が歩み出しました。しかしその陰には、戊申戦争や佐賀の乱や西南戦争の不幸な戦いで多くの戦死者を出しました。国家建設のために尽力された多くの同士の尊い命を慰霊顕彰するために、大村益太郎(日本陸軍の創始者)が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて明治2年に東京招魂社が創建された。その後明治12年(1869)に「靖国神社」に改名し現在に至っています。ここで私が気になることは、明治維新にいたるまで鳥羽伏見の戦いから函館の五稜郭にいたるまでの内戦で、新政府側で3588名の戦死者があり、この政府側だけの戦死者が招魂祭に招かれて靖国神社に神霊として祭られているが、旧幕府側の8628名と新政府の招かれざる魂が1369名であり、約1万余の魂が排除されたことは、仏教の怨親平等思想で考えるとどうしても納得いかないところです。当時の尊王攘夷とは現代日本でいうと極左から右翼まで反対しない民主主義と同じような誰からも受け入れられる一般的な理念だったようです。極端にいえば正義とか平和と同じようなものです。佐幕派も倒幕派もともに尊王攘夷だったわけです。歴史的に倒幕派が勝ったので自分たちこそが尊王攘夷だったと倒幕派が主張しました。内戦の激化が進むと招魂祭を執り行い、官軍兵の指揮を高め、先に斃れた同士の魂を神に祈り、その前で自らも死を誓う「崇高な」儀式として、招魂祭は一層その必要性をましました。続く(参考 大法輪・カルチャー講座 幕末維新と仏教)2011.11