お寺あれこれ 22

盆の由来を調べる 2
目連尊者はお釈迦さまの教えによって、7月15日の衆僧自恣(じし)の日に、衆僧に百味の飲食を供え、供養するわけですが、これについて由木義文氏の盂蘭盆会講和から引用させていただきます。

十方大徳、衆僧に供養するわけですが、供養とは、サンスクリット語でプージャナー(pujana)で、香、花、灯明、飲食、資材などを三宝(仏、法僧)、父母、師、亡者に供施することを意味しています。しかし、本来、インドでは尊敬することを意味していた。相手を尊敬することは、とりもなおさず、相手に仕えることであり、それはまた、衣・食・住を捧げることであった。そして供養したものは、その行為により、善き果報を得るとされていた。ここで興味あることは、供養されたものが、供養の果を受けるのではないということである。さて、このようなインドにおける供養の考え方を踏まえるならば、興味深い解釈が「盂蘭盆経」においてもできることである。つまり本経典では、僧たちに供養することにより、父母、七世の父母が餓鬼より救われているが、本当は、僧たちに供養することにより、供養した私たちが、救われるということになってくるからである。お釈迦さまは、私たち自身が餓鬼に生まれず、現世において、平安な生活ができるよう、このような教えをとったとみることもできるのである。略 また、百味の飲食を僧に施しなさいとある。一体、施し(布施)とはどういうことなのか。このことについて、若林隆光氏「仏教の生活質問」から引用させていただく。心の行きわたる施しをするのが布施です。奪い合いの生活から、与えあいの生活に入ることが、仏教の理想実現の一つの手段とされえていますが、物のあるものは物を、知恵のあるものは知恵を、力のあるものは力をというように、自分の及ぶところで施しをするのが布施です。ですから、布施には財施、法施、無畏施の三種があるといわれ、財物を施したり、智力を施すばかりでなく、それに伴いがちな、自分が施してやったとか、あいつにあれをやったという我の心を離れて、無畏=安らかな心を施して上げるのが、最上の布施とされています。法事をしてお礼に財物と思うのは布施のほんの一面で、それは、法施、無畏施と財施の施し合いと考えるのが本当です。略 昔、布施をする時には「三輪清浄」ということがあった。布施する者(施者)、布施を受ける者(受者)、施物の三つに執着があったら、布施の意味がなくなってしまうということである。このような布施に対する考え方をふまえると、盂蘭盆でおいしい飲食を受ける時、僧はそれに執着してはならない、布施した人も、その行為に執着しない、どうぞ、盂蘭盆の布施は「三輪清浄」でなければならないことを思い起こしてほしいものである。もっと簡単に表現すれば、喜んで捨てた(喜捨)とか、もらっていただいた、受けさせていただいたという精神で布施がおこなわれなくてはならないということである。布施と盂蘭盆の供養をこのようにみてくると、一つの大きな問題がでてくる。それは、布施する私の態度というものが大切であることである。態度いかんによっては、父母、七世の父母が救われないということである。略 さらに、その行為をした人は、善い果報をもたらすということを決して、忘れてはならない。

と解説されていました。盆の説明をすると、この仏説盂蘭盆経の説明なしには避けて通れないのです。お釈迦さまの時代から、この経典が800年ほど経過した中で、中国で撰述された経典とありますが、隋、唐代には盛んに盂蘭盆会が盛んに行われたことが記録されています。中国の随・唐時代は現代から約1400年前ですが、お釈迦がおられた祇園精舎は、修行する寺院であり、また修行僧という考えが色濃く残っていた時代であったと思います。当時の人々から尊敬される仏教の教団(サンガ)・僧侶であったように思います。お釈迦様の教えと中国での孝養が付加され盂蘭盆経が、日本にも、伝わり日本書紀には、推古天皇14年(606)にはじめて盂蘭盆会が行われたとあります。江戸時代には檀家制度が確立し中期には、盂蘭盆会、施餓鬼会とが一緒になった現在の形ができあがったのです。
盂蘭盆経の経文に「仏さらに諸々の、善男善女に告げたもう、仏弟子にして孝順の、行を修せんとする者は、遠つみ親を思うべし」とあります。訳は私は、常に念じ、憶うとは、私たちは父母や先祖に生かさられているという実感をもって知ることではないでしょうか。先祖の人たちは、その時代時代に、一生懸命に生き伝えてくれた、生かしてくれたご先祖に対して、この命を大切に今を精一杯生きることではないでしょうか。
お盆の由来や意義を考えると、ご先祖の精霊や自然の恵みや社会に生きる人達の労に感謝して、この私の命が生かされている思いがします。お盆には、私たち各家の墓を掃除し仏壇の埃をおとし、精霊棚を作り、盆中はご先祖の精霊をお迎えして、心からの供養を、真心を、お供えしたいと思います。また寺では、盆施餓鬼会が執り行われます。ご先祖と共に、餓鬼にも施す法要です。また無縁の精霊や現代では世界中で起こる無差別テロ、民族戦争、交通事故、凶悪事件、(飢えで)で命を落としている人達が多くいますが、こうした人達の命の尊さを思い施餓鬼会に参加するのも意味あることではないでしょうか。最後になりますが、陰暦7月15日は盂蘭盆経では、僧自恣の日であり、現在の8月15日であります。この日は、私たち日本人にとっても忘れられない終戦の日です。私たち日本人が一人一人、平和について、戦争について、自ら恣(ほしいまま)に反省する日なのです。
以上のことから、この盂蘭盆会の目連求母説話が中国で撰述されて、今から1400年前から盂蘭盆会として、先祖供養が行われた事と思います。インドの仏教に中国の孝順の思想が附加し、生活化した仏教として受け入れられたと思います。また日本に伝わり、日本人にあった日本独特のお盆の仏教行事として現在に至ってます。私たち僧侶が悪意でお経を作り替え、盂蘭盆会を利用しているわけではありません。お盆のこころは、先祖代々の祖霊や有縁無縁一切の精霊の供養であり、特に浮かばれない精霊や餓鬼にも供養をすることです。財施がなくても心施があれば「供養」はできることです。また家族仲良く、明るく、正しく、平和に生きる事です。これが私の答えです。

お寺あれこれ 21

7月23日 別時念仏
午前10時から別時念仏と茶話会を致しました。参加者は12名でした。暑さ厳しい折ご参加頂きまして有難うございます。8月、9月は盆施餓鬼会と彼岸会が続きますので、次回の別時念仏は10月23日です。多数のご参加をお待ちしています。
別時念仏と法話(盆と施餓鬼会)が終り茶話会である檀家さんから、盆の故事である「盂蘭盆経説話」の内容について、率直にご意見を述べらえれました。副住職にその檀家さんが、法話(説話)の中で、「なぜ僧侶にお供えをし供養をしなければならないのか、それを僧侶自身が言うのは、何か違和感を感じる。供養はお金を持った者しかできないのか。」とご自分の意見を言われたのであるが、途中から意見を言うのも難しいものです。お盆はご先祖の精霊と共に、ふだん供養されない無縁の精霊や餓鬼(私たち人間は、自分の家を建てるのに動植物を排除していることは、動植物にとっては勝手なことです。)にも供養をするのです。と住職として言わせていただきましたが、ご理解されたようには思いません、改め盆の資料を確認して私の考えをまとめた上で話したいものです。

盆の由来を調べる。
お盆は『仏説盂蘭盆経』を根拠にしています。その経典の内容は下記の通りです。
①目連尊者は神通力で、亡くなった母が餓鬼道に堕ちて、苦しんでいることを知る。
②目連尊者は救いをお釈迦様に求めた。目連一人ではどうすることともできない、幸いに7月15日が僧自恣の日で大勢の僧侶が一堂に集まるの
で、衆僧に供養して回向を頼めば、亡母は救われると説く。
③盂蘭盆会が営まれる。「陰暦7月15日 十方衆僧自恣の日」
④亡母はその功徳によって餓鬼の苦しみより離れ救われる。
⑤釈尊は、未来においても孝順のために盂蘭盆会の供養をささげれば現在の生みの父母、過去七世の父母にその功徳は及ぶと教えられ、毎年7月15日に盂蘭盆会を進める。
⑥その場に集う釈尊の弟子たちはその教えを聞いて心から喜び、その教えを実践に移した。

以上の経典の内容からみても、餓鬼に堕ちている亡き母を救済する方法としてお釈迦さまが目連尊者に教えたのは、7月15日の衆僧自恣の日「夏安居の最終日」です。これをを分かりやすく説明しますと、インドでは長い雨期「4月16日~7月15日」スコールがあります。この期間は布教伝道できなくなります。この期間はお釈迦様のお膝元「祇園精舎」に仏教の教団(サンガ)が集まり、雨期90日間、お坊さんの修行(再教育や講習会)をします。これを安居と呼んでいます。その安居の最終日に、自らの行いを懺悔し反省して、師匠の許しを得て、身も心も清めて再出発する日です。インド全域に布教伝導(遊行)に出発される日です。お釈迦様が目連尊者に教えられたのは、7月15日の十方衆僧(修行中の僧侶)に百味の飲食を供養すれば、十方衆僧の修行で得た道力をもって呪願すれば、その功徳善根の力を振り向けることによって、自ずと餓鬼道に堕ちている者も救済されるということです。これは仏教徒にとっては歓喜する日でもあります。続く

お寺あれこれ 20

祇園さん・八坂さん 知ったはりますか

当山では、盆が来る約一ヶ月前から境内の掃除と庭の剪定に取りかかるのですが、毎日掃除をしてますと、正直ため息がでます。来月までには掃除と盆の準備を終了する予定です。住職ができないところを、21日から造園業者が剪定をする予定です。ところで京都では盆の行事というと7月17日の祇園祭りと8月16日の大文字の送り火が有名です。私が本山でご奉仕をさせて頂いていた時に、この祇園祭りの日に、昔、私が若い頃本堂での日中法要が終わり、本堂の内陣西側に八坂神社の方角に祭壇を設け、般若心経3巻称えた事が思い出されます。なぜ知恩院で八坂さんの祭神にお勤めをするのか、疑問を持ちその時に調べた資料(無)、を思い出しながら書きたいと思います。知恩院の下には「祇園」と言う花街がございます。京都の「祇園さん」は、「舞妓はん」や「いちげんさんお断り」等々、友人と食事や飲みに行った事など懐かしい想い出もあります。平家物語には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」の有名な古文を思い出します。四条通りのどんつきには八坂神社があり、この神社のご祭神は、素戔嗚尊「スサノオノミコト」です。この神は、頭には牛のような角があり、顔は恐ろしい形相でした。この神は、お釈迦様が修行された祇園精舎の守護神で牛頭天王「ゴズテンノー」と言います。またこの神は疫病退治の神でもありました。この牛頭天王は仏教「祇園精舎」の守護神でもありますので、この意味から八坂さんの下町も「ぎおん」と呼んでいます。仏教が日本へ伝えられた時、神道や神社との摩擦が起きないよう「本地垂迹説」が考えられました。これは諸外国にはない神仏習合という日本人の特徴的な考え方のように思います。この八坂さんは、創建については諸説あるようですが、もともとは寺であり、貞観18年に祇園王寺?「祇園寺」、祇園感神院または観慶寺と言いました。興福寺や延暦寺の配下でありましたが、時代の推移と共に幕府の以下ではなく、疫病退治の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)から祭りの色彩が強くなり都の町衆が受け継がれたようです。この祭りの牛頭天王が天から降りたと言われる知恩院の黒門前の「瓜生石」がありますので、お近くへ寄られた時は、T字型道路「交差道」の中央に瓜生石がありますので、車に気を付けこの石を観て下さい。京都に住んでおられても、ほとんどの皆さんはご存知ではないようです。
明治維新以降、神仏分離令により、慶應4年「感神院祇園社」=「祇園さん」から「八坂神社」=「八坂さん」と改名されました。明治政府の政策の為、牛頭天王と素戔嗚尊は縁が切れて、この八坂神社が「祇園さん」と呼ばれる理由が分からなくなりました。

祇園精舎・鐘の声について

京都の「祇園さん」は、お釈迦さまの祇園精舎の祇園にご縁があるのは、お分かりの事と思います。昔、お釈迦さまのご在世の頃、インドのコーサラ国という国があり国王を波斯匿王(ハシノクオー)とといい、その王子を祇陀(ギダ)王子といいました。この国王は見事な御苑をもっていました。見上げるような大樹がしげり、夏でも涼風が吹き抜ける遊園地でした。王子は国王に頼んで、これをゆずってもらいました。人々はこの御苑を、祇陀王子の樹林を略して「祇陀園林」とか「祇園」と呼びました。
祇陀王子は、あとでお釈迦さまの教えを聞き、すっかり感激して、何かお役に立てて下さい。とこの祇陀園林を献上しました。ちょうどその頃、須達多(スダッタ)という富豪がおりました。彼はお釈迦さまの教えによって長者になれたのです。彼はお礼の心から、この祇陀園林に立派なお寺を建てて、お釈迦さまに住んでいただくことになりました。お寺の建築は、精妙につくられますから、「精妙な屋舎」=「精舎」と呼ばれました。あの平家物語の祇園精舎の鐘の声とは、このお寺「僧坊)のことです。
この僧坊の西北の隅に「無常院」という建物があり、病気や年老いて死期の近付いたお弟子が住んでいました。浄土三部経の中の「阿弥陀経」にはこの僧坊で説かれたお話が書かれています。「一時仏在 舎衛国 祇樹 給弧独園・・・」と訳くされています。この無常院の四隅に釣鐘があり、病僧に臨終が近くなると、この鐘が自然に鳴りました。その一つ一つの鐘の音に、次のような意味が聞こえたといいます。
諸行無常 すべてのものは皆移り変わり変化して止まない。
是生滅法 これがすべてのものが移り変わってゆく免れない法則である。
生滅滅己 この生じたり滅したりすることをすべてなくしてしまい終わったとき
寂滅為楽 煩悩を離れたとき、ほんとうの楽しみの世界が開かれる。
この四つの鐘の音を聞くと、死期に臨んだ僧はたちまち苦しみがなくなり、楽を得て浄土に往生したと伝えられています。そしてこの鐘の音は百億世界に響き、その音を聞いたものは皆苦しみを免れることが出来たと書かれています。今でもお盆にお精霊迎えに行って、鐘を撞くのはこの故事に依っているのです。浄土宗新聞 みほとけ講座(S44)