お寺あれこれ 25

お見舞いに行く
以前職場で働いていた時の同僚が体調を崩し、彼の自宅近くの病院に入院をされた事を聞きお見舞いに行く。彼は学生時代空手部で、話し好きのいい雰囲気をもった硬派でありましたから、体には自信を持っていたと思う。今もスポーツジムへ行き2時間くらいは軽く汗を流している彼であるから、私もまさかと思ったが、お互い還暦も過ぎなかばで、ある意味では病気になっても覚悟をしなければいけない年である。朝車で行き1時間30分ほどで、その病院に付き彼に会う、彼の顔には大きなマスクに、腕には名前が書かれたものをまかれていた。話を聞くと2週間ほど前に、体調が悪いのに、自分では大丈夫と思っていたが、娘さんが病院へ強制的に予約を取り、受診に行ったところ、即入院をするはめになったそうである。昨日まで鼻に入っていた酸素吸入がとれやっと自分で歩けるようになったそうである。娘さんが来られていて、色々と世話をされている。子供の一人には女性がいなければ、こんな時には、男性ではどうにもならないものである。(残念ながら私の場合は、こどもは兄弟とも男性である。)彼も寺の住職であり、今も二足の草鞋で現役で働いておられる。なにかと大変であることはわかるが、まずは病気を治すことが何より先決であることは私が言うより、彼自身が一番わかっていることであるが、「早くようなってや」と言うしか、言葉がないのである。彼はふだんの生活とは違う入院生活が大変であるので、娘さんに「勝手がいかない分」なにかと頼んでいるようである。わたしも心臓が悪く14年前に3週間ほどの入院生活を経験をしたが、入院当初は自由がなく検査ばかりですから、ほとほと精神的に疲れてしまいます。入院し手術ともなると「まな板のコイ」で医者と病院側にすべてを任せるしか方法がないのである。いつも思うのであるが、治る見込みのある病気であるならば、入院のしがいがあるが、治らない病気で入院し一人寂しく死ぬ場合も多々あるのである。現代ではほとんどの方が病院でお亡くなりになる時代である。彼の話によると、この入院中に何人かは親族の方が、遺体を迎えに来られたということである。私たち僧侶も死に接する機会が多くありますが、自分の事になると、どうなるのか、お釈迦さまの教えでは世の中のすべての存在が変化することは、頭の中では教えとして知ってはいる。実際自分が死ぬこともその一環であり、そう怖がり恐れる必要はないのであるが、そこは凡人で愚か者であるので、慌てふためくのが落ちかもしれません。担当医によるできる限りの処置がなされても、麻酔やモルヒネにより痛みは和らぐが、患者である私たちの心の不安や苦しみは、薬や麻酔では、やわらぐことはないのです。わたしたち現代人が、安心して息を引取るのは、どうしたらいいのか、やはり普段から、生死の事や信仰の中で、自分の死を「どうしたら」素直に受け止める事ができるのか、普段から考えておくことが大切ではないでしょうか。今までは病院や医師側の一方的な判断や延命治療を受け、本人の意思とは別に、死に至るケースが多くありましたが、これからは患者自身も医師任せや病院任せではなく患者自身が自分の病状をよく知り、自分の判断や意志を養うことが大切です。日頃からしっかりと「生死事大、無常迅速」を心がけておくべきではないでしょうか。彼とは30分ぐらい話をして別れました。彼は寺の松を自ら剪定をされるので、早く彼の剪定した松を見たいものです。

警覚偈
敬曰大衆 生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸

敬いの念をもって広く皆様に申し上げます。生と死の輪廻をめぐるか否かの事は、生きていく上でもっとも肝要な事ですが、時は常に移り変わり、しかも非常に速いものですが、おのおのしっかりと目を醒ますべきです。慎みの心をもって決して放逸(きまま)になってはいけません。