お寺あれこれ 29

掃除と庭の手入れとふだん思うこと
今日は昨日に続いて、午前中は本堂前の松の剪定と午後は裏庭の落ち葉を集め掃除をする。例年この時期は相も変わらず境内の掃除と庭の手入れをします。当山では、月に3〜4件の法事と少なく私自身の用事もほとんどありませんから、掃除と庭の手入れをしながら寺の法務(仕事)をしているようです。寺では一に掃除、二に勤行、三に学問と、よく言うがわたしにはどれもできない、私は気ままな掃除だけはできるのです。還暦を過ぎ二足の草鞋も終わり、自由に念仏とお経が称えられて、その意味を調べるのも面白いが頭に入っているかと言えば、一日経つと頭から消えています。時すでに遅しです。この年になっても今日の自分よりは明日の自分のほうが、いくらかましな者になろうと仏教書を読んだり、知恩院や浄土宗の研修会に参加するが集中力がなく理解ができないことも多々ある。そんな自分自身に悩み苦しむが、毎日掃除をしていると心が無になる。無心に掃除をしている、他の事を忘れ気ままな掃除をした後の庭を見て喜びを感じるのです。しかし、秋の庭は、落ち葉が落ち三日後にはもう一度箒で掃かなければならないのです。草も生えてくる、草も引かなくてはならない。心も掃除をしている間はいいが、どうも部屋の中で、寺の事務や本を読むと眠たくなり、他のごたごた事に頭を悩ましすっきりしないときは、その場で念仏を称える、こうして一日が終わり日々が過ぎて往く、春、夏、秋、冬が過ぎ一年があっという間に過ぎ去る、寺の行事も終わり新年を迎えます。住職になり35年が過ぎそろそろ次の代の事を考えます。寺の住職には年齢制限はなく定年もないが、近いうちに隠居も考えたいものです。正直体もいつまでもつか自分自身わからない。まったく別のことですが、光忠寺の前の点滅の信号で、掃除中に、ドンーという音がしたので山門より道路を見ると、南から北に進行方向に車どうしが追突事故を起こしていました。今年に入って3回か4回目の交通事故である。緩い下り坂で(反対車線「北から南行」)は普段は点滅信号で、赤信号になっても車が止まらないので、前の停車中の車に追突する事故である。近くには幼稚園があり、若いお母さんや幼い園児がこの信号の横断歩道を渡られる、気を付けてほしいものです。事故車が走行車線をふさいでいるので、反対車線の車がしばらく通行できないので、私が車を誘導していると、初老の男性が自転車をおしながら、私の方を見て、「何しとんねん」と大きな声を出し立ち去ったのです。事故を起こした運転手に言ったのか、誰に言ったのかわからないが、心ない言葉です。そうこう思っていると事故車が横のバス駐車場(安全な場所)の方へ移動されたので、車も両方通行ができるようになったので、私も寺にもどりました。最近のニュースで、ポケモンをしながらダンプカーを運転して事故を起こし小学生が死亡し、また認知症の疑いのある高齢者の男性が小学生の登校中の列に突っ込み小学生が死亡されています。亡くなられた幼い命は二度と父母のもとへは帰って来られません。私たちが気を付け交通事故をなくさねばなりません。人間の不注意で事故が起こったなら罰する刑も重くしなければいけないものか?、また、現在自動車メーカーが競って自動運転ができる自動車を開発中ですが、自動車が事故を起こさない自動車をつくれないものか?運転免許も年齢制限が必要なのか?私たち一人一人が「交通事故ゼロ」を心がけなければ事故はなくなりません。一刻も早く交通事故がなくなる社会をつくらなければ、交通事故で亡くなられた方々がうかばれない気がします。老若男女 命は平等であるが、特に幼い子供たちの命が亡くなられることは胸が痛みます。ご冥福をお祈りします。