お寺あれこれ 50

いよいよ師走です。忘年会が禁酒?
今日のニュースで、どこかの市職員が飲酒運転で検挙され、その市全職員の忘年会「宴会」での飲酒禁止がニュースで取り上げていました。私も含め飲酒を楽しまれる方は残念な事です。しかし飲酒による悲惨な交通事故や事件が多発していることを思うと飲酒禁止も必要だと思います。仏教も五戒(不殺・不盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の道徳律)がありますが、現在では南伝仏教に伝わったスリランカやミャンマーやタイなどの上座部仏教である仏教国では戒律として守られていますが、わが国では律宗や一部の修行道場の限られた寺院以外は、その寺の住職や僧侶の判断『自己責任』に任されているのが現状です。特に明治政府が出した太政管布告133条で発した『自今、僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事』によって、寺院の住職や僧侶の生活が一般化したようですが、この飲酒について、仏教ではどのように捉えているか調べてみました。飲酒戒として『不飲酒、すなわち酔っぱらいの行動をしないこと。換言すれば常にめざめの生活をすることを教えたものがこの戒法の精神である。飲酒を誡めたのは、飲酒すること自体を誡めたものではなくて、飲酒することによって放逸行をしないように自粛自戒することがこの戒法の根本法である。なぜ放逸行を誡めるかと云えば、それは仏教が万物万象の根本法則にめざめ、それに従って生活行為をすることを以て倫理の大本であるから、でたらめの生活や、だらしない、やりっぱなしの生活は、仏教精神を裏切る大なるものであると云う理由にもとづくのである。たとえ酒を飲んでも、放逸の行為をしなければよいのであるが、多くの人は、酒を飲むことによって放逸の行為が起り、よっぱらいの生活が現れてくるために酒を飲んではならないと誡めるのである。仏教精神からすれば、仏教徒は大自然の法則に従って、日に新たにして、日に新たになる改善進歩、向上発展やむことのない生活行為をするのでなければならない。従って酔生無死の人生を送ることや、ずぼら、なまけの行為をすることは、絶対に禁物である。ここにこの戒法が制定された所以である。』と円頓戒(大乗仏教道徳)概説の中に書かれていました。また江戸中期の学僧の貞極上人の「蓮門住持訓」と云う当時の寺院に住する住職・僧侶(寺族含む)としての本来のあり方、生き方を著したものですが、その中に『女犯・肉食をしないというだけで、甚だ仏法にかなった出家者であると、自ら高慢心を発している僧もよくいる。女犯・肉食だけを、如来の禁戒というのではない。必ずこのようなことを心得て、恥じる心を起こすべきである。酒は罪を起こす因縁である。飲むべきではないけれども、飲まないわけにもいかず、しかたなく世俗の礼に従って用いる事があるならば、酒盛りをせず、在家の人の行儀とは異なった振る舞いをして、在家の方の視線があるということを忘れてはならない。』と日常の生活訓で、飲酒のことについても事細かく書かれています。私自身も耳の痛いことですが、先日、浄土宗宗務庁で、―僧侶いかにあるべきか―「信頼される僧侶」というシンポジウムが浄土宗総合研究所主催で開催され私も拝聴しました。その中でも問題になった一つが、僧侶の飲酒でした、浄土宗総務局に押せられる苦情・相談の内容の一部に僧侶の態度についての苦情があったそうです。僧侶同士で飲みに行って大きな声を出して騒いだり、懇親会や研修会の後席での羽目の外した言動、料理の食べ残しや酒席での態度の悪さであったり、実際に店の店員から蔑視される対応をとられる事もしばしばあったという。信頼を失うのは一瞬である決して他人事ではないことを住職や僧侶は心得なければならないことです。ホテルでの懇親会や食事会をひかえるべきだという意見もありましたが、檀家さんと円渇を保つ一つの場であるならばある程度は、飲酒も許されると私は勝手に思っています。法然上人のお言葉に「酒を飲むは罪にて候か、答、真には、飲むべくも無けれども、この世の習い。」と在家信者からの筆問に答えられた言葉でありますが、僧侶の飲酒を考える上で心にとどめて置きたいものです。たまたま今読んでいる大法輪(H26.1)に厳しいご自分の考えの記載があり、一部抜粋しますと現代の住職・僧侶に対して『何より大切な事は世襲に拘らないことである。僧侶としての志や発心のない子供に寺を継がせないことだ。やりたくもない家業をついで失敗した例は社会にたくさんある。僧侶は職業ではなく。生き様であることは多くの先人たちが示している。人々の信施で生きることの意味を理解できない者に、僧侶は務まらない。他の職業を選ばせるべきだろう。志をもつ僧侶に寺を譲ればいい。現代の日本の仏教が、釈迦が2500年前に体現した仏教と全く違うことは多くの人が認めている。その違いが発展となるか腐敗で終わるかは、今この国を生きている僧侶に掛っている。』と映像作家の児玉修氏が書かれていました。私たち僧侶にとって厳しい激励のご意見として受け取らせて頂きました。