お寺あれこれ 56

牡丹咲きました。

お寺あれこれ 55

寺墓地と永代供養合祀墓に思う
当寺では境内墓地管理規則があり、檀信徒でなかれば境内墓地を使用しできません。しかし当寺は形原松平家菩提寺であり、江戸時代までは寺領が与えられでしたが、檀家もない事ですから明治以降経済的な地盤がなくなり、昔から他寺院の檀家を墓檀家として受け入れていたようです。明治時代は長く住職が不在で総代の日誌にも檀家や墓檀家から斎米や墓守料を集め当山を護持された記録が残っています。このような経緯から当山墓地管理規則の中に檀信徒「檀家・信徒・墓檀家」として、墓檀家を檀信徒の一つに「位置」づけています。私住職としては浄土宗の寺院境内墓地ですから、阿弥陀さまがお守り頂いている境内墓地であることをわすれず、先祖様の墓にお参し供養して頂ければいいのです。今日も電話で永代供養墓の問い合わせがあったようですが、実際に住職の説明を聞いて頂き、寺(住職)もその方もお互い理解した中で、過去の宗派は問いませんが、浄土宗に帰依し檀信徒になって頂ければご使用頂けます。また当寺にある永代供養墓に毎日お参りをし掃除をされる方がおられます。永代供養墓中央の蓮台に阿弥陀仏(石像)がお座りです。毎朝阿弥陀さまの前で「ご主人の供養」の為に合掌される姿を見ていますと頭が下がる思いがします。大規模霊園や葬送の形態が商品化した中では、その人の心によりますが、人の心の痛みや喪失感を癒すことはできないのではないでしょうか。葬送の自由はいいのですが無秩序に多様化した結果、墓も遺骨置場としか捉えられない方が増えています。当山の境内墓地・永代供養墓のご使用の皆様は供養を大切にお考えの方々だと思っています。仏縁に感謝し先祖の供養を大切にされる方にご使用して頂きたいものです。葬式、供養、墓の対象は家から個人に急速に変化しています。東京の築地本願寺では、宗派は問わず誰でも入会できる会員組織があり、会員は合同墓「代々ではなく個人単位の墓」に納骨ができるそうです。また専属職員を置き「人生サポート」や通夜・葬式の申し込みを24時間体制で終活サービスの受付をされています。またある寺院では檀信徒制度に頼らず、全国から宅急便で送られた遺骨を永代供養納骨できる寺院と住職が某新聞やテレビで紹介されていました。
現在も多くの寺院は檀信徒の皆様によって維持がなされています。しかし檀信徒の皆様でも家族全員が同じ宗派であるとは限りません。個々の信教は自由です。親が仏教徒で子がキリスト教徒もあるわけです。あるいは無宗教もあるわけです。寺台帳に檀信徒として記載があってもその方が檀信徒という意識がなく慣習上お参りされいても住職には心の中までわかりません。そう考えますと、檀信徒「会員制」で「墓地管理規則」だけ守って頂ければ墓地使用ができるということです。現代に言いかえれば会員制でもあるわけです。墓は遺骨を埋葬するところではあるが、同時に残された人々の思い出があり、家墓、個人墓、夫婦墓、合祀墓、自然葬、樹木葬、散骨等々の埋葬「納骨」も多種多様な方法があり自分にあった墓を選べる時代になったのではないでしょうか。しかし墓は決して遺骨の捨て場所ではなく生者と死者との魂の交流の場でもあり、ある意味「重要なグリーフワーク」では日常の自分を語ることできる場所でもあります。約23年前に蒲郡の光忠寺さんへ参拝した時に大きな墓地があり、個々の墓所全域に美しい花が供えられていたことを今でも忘れられません。その地域の習慣でしょうか毎朝墓にお参りをされているようです。

 

お寺あれこれ 54

梅満開  お参りと孫のこもり
今日は遠方へ引っ越される檀信徒の方があり、仏壇の発遺(精念抜)のお勤めに行きました。その方から同じ浄土宗のお寺さんを紹介してほしいというお願いがあり、知り合いのお寺の住職さんにお願いしたところ心よく引き受けて頂きましたので、その方も喜んでおられました。私も有難い事です。昨今新聞やテレビなどで、終活に関係する墓じまいや葬式や墓の特集が多いですが、その影響なのか当寺の檀信徒の方も入って来られる方も出られる方もここ最近多くなってきました。今は核家族化や少子高齢化が進み、また効率性やが利便性だけで、物事を判断し命の大切さや死の尊厳を考える上で重要な場であるはずの葬式が軽視されています。また安易に墓を求められた結果、家族や親族でのトラブルが起こり、結果的に改葬された方もおられます。ネットや電話一本かければ「僧侶」が派遣されます。簡単に葬式・中陰・年回法要・墓まで依頼ができる時代です。そこには住職や僧侶と供養を依頼される人との人間関係がなく、その場限りの関係です。私にはなにか割り切れないものを感じるのです。人生観や死生観を考える事もなく宗教性が薄れた形骸化した葬式が増えています。社会の変容であれば当然かもしれませんね。考えてみると、寺の檀信徒であれば、葬式や年回法要を頼めば、その住職がどのような人間であっても檀信徒である限り住職を選べないわけです。また逆に住職も寺の檀信徒であれば「どのような人間であっても」檀信徒の関係性を続けなければなりません。ある意味そう考えるとアマゾンの「派遣僧侶」は、供養を依頼される人にとっては、煩わしい人間関係はなくその日だけの供養ではあるが、一応その方の考えの「供養」という目的が果たせるわけです。供養や僧侶は商品ではないけれど、現代に合った新しい寺制度を考えることは早急に必要ではないかと思います。
江戸時代からの寺檀制度という強い慣習で寺の財政基盤が現在まで支えられてきましたが、その制度も崩壊しつつあるのが現状です。こうした状況に陥った一つは私たち住職・僧侶も寺檀制度だけに頼ってきたことも大きな要因です。しかしたまには今までの自分を振り返りご先祖に手を合わして頂きたいものです。当山の境内にはいま梅が満開です。人間は苦しみ悩み愚痴を言っていますが、寒中力いっぱい花を咲かせている梅花を見ていると心が和みます。今日は孫とだんごを食べ花見を楽しんでいます。ご近所の皆さん山門から入って見て下さい。

 

お寺あれこれ 53

2月24日 涅槃会と別時念仏
本堂前庭の紅梅と白梅のつぼみが、寒い中咲き始めました。あと一週間もすれば満開になると思いますと、楽しみです。今日は当山では涅槃会と別時念仏を奉修しました。お釈迦さまの「釈迦行僧図」を本堂正面に掛けさせて頂きました。お顔の口と顎は髭だらけ頭は薄く剥げ身体の足には毛が生え大衣をまとった足元は裸足で伸びた爪で立っておられるお釈迦さまが描かれています。この釈迦行僧図の軸を拝しながらお念仏を称えさせて頂きました。当時の修行僧の持ち物は、大衣、上衣、下衣、鉢、坐具、水漉器の六つのものだけです。古代インドでは晩年に達した人はすべての執着をすてて遊行という各地を遍歴し法を説く旅に出ることが理想とされました。お釈迦さまもこの慣習にしたがい人生を終えられたのでしょうか。本日の参加者は10名でした。

お寺あれこれ 52

法然上人の住まわれた東山吉水の草庵が現在どのあたりなのか、何年か前に調べたことがあり今回の冬安居講習会で、坪井先生「初期浄土宗と知恩院」の講義を楽しみに拝聴させて頂きました。私が興味を持つきっかけになりましたのは、現在の知恩院の方丈庭園がどのように作庭されたものか調べたのが始まりです。この方丈庭園は江戸時代初期の大方丈小方丈の書院建築である東南側に沿って瓢箪形をした池庭庭園であり、僧玉淵と量阿弥が作庭したものです。江戸時代には度々改修されたようです。この方丈庭園の地は、古図「応永頃ノ古図写」を見てますと、常在光寺・東禅寺が、現在方丈から経蔵付近と思われます。もともとこの庭園は青蓮院領に足利尊氏が常在光寺を建立し、尊氏自身が好んだ庭園であるという一説がありました。現在方丈庭園の中に護法石(慈鎮石)という大きな石があります。「慈鎮和尚」?どこかで聞いたことがあるので、調べてみると、、法然上人が四国流罪が許され帰洛されたとき、法然上人に親しくなさっでいた九条兼実公の弟で、青蓮院慈圓和尚(慈鎮)のお名前であります。この慈鎮和尚の配慮で大谷の禅坊(勢至堂)に帰洛された法然上人が住まわれました。等々私のわずかな知識の点と点が結びついて、今私が見ている石組や池の護岸を法然上人も遥か遠い昔同じ庭石や山々を見ておられたことを思うと、色々と興味が起ってくるものです。現在知恩院の御影堂の修復が進み来年完成と聞いております。早く再建された御影堂をみたいものです。知恩院へお参りに行く度に真葛ヶ原、吉水中坊、吉水東新坊、吉水西旧坊などが現在のどのあたりなのか、まだまだ知らないことがあり今後も調べてみたく思っています。

 

お寺あれこれ 51

元旦 修正会・諸堂参拝