お寺あれこれ 53

2月24日 涅槃会と別時念仏
本堂前庭の紅梅と白梅のつぼみが、寒い中咲き始めました。あと一週間もすれば満開になると思いますと、楽しみです。今日は当山では涅槃会と別時念仏を奉修しました。お釈迦さまの「釈迦行僧図」を本堂正面に掛けさせて頂きました。お顔の口と顎は髭だらけ頭は薄く剥げ身体の足には毛が生え大衣をまとった足元は裸足で伸びた爪で立っておられるお釈迦さまが描かれています。この釈迦行僧図の軸を拝しながらお念仏を称えさせて頂きました。当時の修行僧の持ち物は、大衣、上衣、下衣、鉢、坐具、水漉器の六つのものだけです。古代インドでは晩年に達した人はすべての執着をすてて遊行という各地を遍歴し法を説く旅に出ることが理想とされました。お釈迦さまもこの慣習にしたがい人生を終えられたのでしょうか。本日の参加者は10名でした。

お寺あれこれ 52

法然上人の住まわれた東山吉水の草庵が現在どのあたりなのか、何年か前に調べたことがあり今回の冬安居講習会で、坪井先生「初期浄土宗と知恩院」の講義を楽しみに拝聴させて頂きました。私が興味を持つきっかけになりましたのは、現在の知恩院の方丈庭園がどのように作庭されたものか調べたのが始まりです。この方丈庭園は江戸時代初期の大方丈小方丈の書院建築である東南側に沿って瓢箪形をした池庭庭園であり、僧玉淵と量阿弥が作庭したものです。江戸時代には度々改修されたようです。この方丈庭園の地は、古図「応永頃ノ古図写」を見てますと、常在光寺・東禅寺が、現在方丈から経蔵付近と思われます。もともとこの庭園は青蓮院領に足利尊氏が常在光寺を建立し、尊氏自身が好んだ庭園であるという一説がありました。現在方丈庭園の中に護法石(慈鎮石)という大きな石があります。「慈鎮和尚」?どこかで聞いたことがあるので、調べてみると、、法然上人が四国流罪が許され帰洛されたとき、法然上人に親しくなさっでいた九条兼実公の弟で、青蓮院慈圓和尚(慈鎮)のお名前であります。この慈鎮和尚の配慮で大谷の禅坊(勢至堂)に帰洛された法然上人が住まわれました。等々私のわずかな知識の点と点が結びついて、今私が見ている石組や池の護岸を法然上人も遥か遠い昔同じ庭石や山々を見ておられたことを思うと、色々と興味が起ってくるものです。現在知恩院の御影堂の修復が進み来年完成と聞いております。早く再建された御影堂をみたいものです。知恩院へお参りに行く度に真葛ヶ原、吉水中坊、吉水東新坊、吉水西旧坊などが現在のどのあたりなのか、まだまだ知らないことがあり今後も調べてみたく思っています。