教え

法然上人の教え

阿弥陀さまの本願(誓願)を信じ、口に「南無阿弥陀仏」と名号(名前・称号)を称え阿弥陀さまの光明に照らされて、人格を高め正しく明るく仲良く生活をし、命終わるときは阿弥陀さまの来迎により浄土に往き生まれる事(往生)を遂げ、西方極楽浄土で悟りを開く事を教えの根本としています。浄土宗では次の三つのことを教えの中心にしています。西方極楽浄土ー阿弥陀さまが人々を救う為に建立された世界。念仏を称えるならば、命終ののち生まれることのできる永遠の安らぎの世界。けがれや迷いのない、真、善、美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。私たちは浄土において「仏になるために菩薩行」をつみ、のちに仏になることができるのであります。阿弥陀経に西方十万億土の彼方にある国と記されています。阿弥陀佛―西方極楽浄土の救い主。浄土教において信仰の対象となる本尊仏。「無量寿経」に法蔵菩薩がすべての人々を救う為に、四十八願の願い(本願)を立て長い修行のあとに仏になり、極楽浄土を建立されました。すべての願いがかなえられている世界であります。この仏さまの名が阿弥陀佛です。阿弥陀佛自身による「すべての人々が真心をもって心から浄土に往生を願い、たとえ十遍の念仏を称えれば必ず往生を誓われました。この願いが四十八願の中の第十八願「念仏往生の願」と言われ念仏信仰の源流であります。選択本願念仏集ー浄土宗を開かれた法然上人が、六十六歳の建久9年(1198)に、前関白九条兼実公の請いによって述作したもの。浄土の教えを集大成したもので、阿弥陀佛の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えれば、どんなに罪深い愚かな者でも、必ず救われることを説いています。仏教の修行は法然上人以前は大変難しく厳しいものであったが、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば、そこに仏道修行が包含されているとし、これが仏によって選び取られた行であると示されました。浄土三部経や善導大師の観経疏などによって浄土宗の教義を一代仏教の中に位置づけています。浄土宗の根本宗典で浄土宗徒必読の書としています。題号に示された選拓とは阿弥陀佛の選び取られた行のことで、「無量寿経」に説かれる本願に誓われた念仏のことです。この念仏を勧めるに当たって、三種の選択を示しています。つまり仏教を聖道門と浄土門に分けた上、浄土門に入れと勧め、次に正と雑の二つの行の中「正行」を修すべし、さらには正行の中の助業を傍らにして、正定の業を専ら修すべしだとしています。この正定の業こそ、本願に誓われた称名念仏(阿弥陀佛の名を称える)です。この著書によって日本ではじめて凡夫救済を目的にした念仏の教えが確立されました。
                                浄土宗常識用語集・大法輪選書


仏教講座

光忠寺だより 4・5月

袈裟
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というように、袈裟は坊主にとってもきれない存在である。今日、坊主という言葉は一般にろくな意味で使われていないが、本来は身分の高い僧侶に対する敬称であった。坊というのは大寺院に所属する個々の小寺院をさし、その坊の主が坊主なのである。しかし、室町時代以降は一般の僧侶をも「坊主」とか「坊さん」とか呼ぶようになったという。袈裟は僧侶が出家者の標識として着る法衣なのである。つまり、坊主は必ず袈裟を着用しているわけである。中国や日本では、衣の上に袈裟をつける。一般に衣と袈裟とは区別されているようである。袈裟にも色々な種類があるが、ほとんどの場合は、右肩をだし、左の肩から右のわきにかけてかける。そこで肩からわきにかけて斜めに斬りおろすことを「袈裟がけ」とか袈裟ぎり」とか表現する。また、「大袈裟」というのは、大きな袈裟を意味し、あるいは大きく袈裟がけにきることをいう。さらに転じて、規模の大きいこと、誇大、おうぎょうを意味するようになった。中国や日本では、袈裟は衣の上に着用するといった。しかし元来インドでは、下衣の上に直接つけていた。べつに衣と区別されていたわけではなく、まさに衣そのものをさしていたのである。ところが、暑いインドではそれでよかったのだが、中国や日本で袈裟だけをきていたのでは寒くてたまらない。そこで、まず白衣を着て、その上に、黒、赤、緑色、紫などの色の法衣を着て、さらにその上に袈裟をかけるようになったのである。
袈裟はサンスクリット語カーシャーヤまたはカシャーヤの音訳である。カシャ―ヤは「赤褐色の」という意味である。そこで、染衣、間色衣、赤血色衣、壊色などと漢訳される。インドの仏教徒は、仏教教団に入門すると、まず髪とひげを剃り、赤褐色の衣を着けさせられる。これが袈裟である。赤褐色の衣をきていると、あれは仏教の修行僧だなと判別されたのである。
古代インドでは男でも女でも、日常生活においては、下衣と上衣しかつけていなかった。下衣のことをアンタリーヤとかアンタル・ヴァストラとか、アンタル・ヴァーサスとかよぶ。いずれも「なかに着る」という」意味がある。また上衣のことを、ウッタラ―サンガとか、ウッタリ―ヤとよぶ。「上に着ける」仏教徒もこの習俗にしたがって下衣と上衣を着けた。「安陀会」と音訳され、「中衣」、「中着宿衣」と音訳されているものが、アンタリーヤ、すなわち下衣である。日常生活は下衣だけ、すなわち上半身はだかですごした。「鬱多羅僧」と音訳され、「上衣」、「上着衣」と意訳されているものがウッタラ―サンガ、すなわち上衣である。
仏教はこのほかにサンガーティというものを着る。「僧伽梨」と音訳され、「大衣」、「重衣」と意訳される。托鉢に出たり、王宮に招かれたときに着る正装用の衣である。僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会を三衣とよび、仏教徒はこの規定の三衣のみをもつことが許された。それらの三衣の色は青・黄・赤・白・黒の五つのはでな原色を避けて、くすんだ地味な色(壊色)が用いられた。その色がカシャ―ヤなのである。最初、三衣は捨てられたぼろ布を洗ってつくられたもので、糞掃衣ともよばれた。
ところが、中国や日本では、規定の三衣だけでは寒さを防げないため、さらにその下に衣を着るようになった。三衣(袈裟)は形式化され、儀式用の法衣の名称になった。極彩色をほどこした華美な袈裟もあらわれた。安陀会は五条袈裟になり(さらに小五条・三緒・輪袈裟などに簡略化された)、鬱多羅は七条になり、僧伽梨は九条になったが、いずれも金襴、錦綾、さらに紋様や縫い取りが施され、きらびやかに贅をつくした華麗なものに変形した。そしてその高価なことといったら、僧侶たちも目をまわしてしまうほどである。ああ、糞僧衣の昔、いまいずこ。(上村勝彦)仏教語源散策「中村元編」

光忠寺だより 2・3月

乞食(こつじき)・托鉢(たくはつ)
インド伝来の仏教習俗には、バラモン教に起源を求めうるものが少なくない。しかし、経文を称えながら歩き、家々の前に立って米などの施しを受ける托鉢という修行法は、バラモン教に由来するものではなく、六師外道と呼ばれる自由思想家たちが活動したころに発生した生活法といわれる。バラモン教圏外の思想家は、シュラマナ(沙門)と呼ばれ、出家修行者にとって、自由な議論をたたかわせていたが、こうしたシュラマナ
の生活様式はすみやかにバラモン教圏にも浸透した。乞食修行をとり入れたバラモン社会は、四住期の制度を生み出した。インドの古代法典は、司祭(バラモン)、武士族、庶民の上層三段級の一生涯を、学生、家住、林住、遊行の四階段に分け、各々の住期の義務を定めている。学生期の者は、師の下で修学するが、日々乞食行をすることは義務づけられていた。(『マヌ法典』二・十八二)ことに第四の遊行期にあっては、乞食行のみによって生活を支えなければならない。(『マヌ法典』六・四三)。職業をもって家庭生活を営む家住期の者は、他住期の者に職を施して保護をせねばならない。(『マヌ法典』四・三二)乞食行は、それゆえ、仏教僧のみならず一般のインド人にとって、果たさねばならぬつとめであり、乞食者に布施することもまた、当然の義務だったのである。乞食の原語として主なものは、「ビンダバーダ」である。ビンダは「粉や米をまるめてた食」、転じて一般に食物を意味する。バーダは、動詞語源パット(落ちる)から派生した男性名詞なので、「団食を〔鉢中に〕投げいれる」を原意とすると解説されている。しかし、エジャトンの『仏教混淆梵語辞典』では、パータに「得ること」という意を与え「食物を手に入れること」の意に解する。ビンダバーダの派生語であるビンダバーティカやバインダパ―ティカも「乞食」と訳されているが、別系統の語として「ビクシュ」がある。これは動詞語根ブㇵジュ(分け前を得る)の希求法の形による派生語で「分け前を望む者」の意味であり、比丘または苾蒭などと音写されている。乞食行は、中国、日本の社会にうまく融けこめなかったようにように思える。勤勉をもって美徳とし、現在、欧米諸国から「働きすぎ」と非難されているわが国の国民性は、無爲徒食如く見える生活態度には、高い評価を与えない。明治5年、托鉢禁止の法令を発してさえいる。乞食は「こじき」と読まれ、今では全く蔑称となっている。風土が変われば修行法もかわるものであろう。大法輪わかりやすい仏教用語辞典」より。

光忠寺だより 1月

寺、てら
「お寺で大きな音がしました。どんな音でしょうか、?」お茶目な若い尼さんが問いかけて来ました。どう考えても分かりません。とうとうカブトを脱ぎました。「それはドスン(土寸)という音です。」なるほど、寺という字は土寸と書きます。しかし辞書によると、ずっと古くは止と寸を書いたとあります。この「止」から「ジ」の音が出たようです。そして「寺」の意味は「役所」であったようです。
昔、中国で時の天子が大そう仏教を信仰され、インドの高僧二人を招かれたことがありました。はるばる旅をして来られたこの二人を今の外務省のような役所「鴻臚寺(こうろじ)」へ一年間滞在させられ、後に洛陽に専用の宿舎を建て、「白馬」と名付けられました。(白馬はインドから中国へお経を運ばれた馬に依られたのです。この白馬寺が中国で初めて建てられた仏教寺院で、それから「寺」の字は「役所」の意味を離れて「僧侶の住居」の意になってしまいました。
これで「寺「」の音が「」ジ」、意味が「僧侶の住居、修行所、仏教の礼拝所など」であることは分かりますが、日本読みの「てら」の出所と訳が分かりません。これに就いて、よくお説教師などは、「本堂の中のお飾りが結構でテリカガヤク。また、仏さまのお慈悲は広大慈恩で、私たち、迷いの闇に閉ざされている者をテラシ給うのでお寺と申します。」と説明されているようです。この説も「和訓しおり」にはでているのですが、どうも語呂合わせのこじ付けというより考えられません。「てら」の語源には次の二つが考えられます。その一つは東南アジアの言葉(パーリー語)で「テーラ」の転訛とする説です。「テーラ」は「長老」の意で、後に「長老の住い」「寺院」の意となったと説明しています。もう一つは朝鮮語で「チョル」の転訛とする説です。これは「礼拝所」を意味し、今日でもそのまま使われているということです。古くわが国へ仏教が伝わった経路を考えると、朝鮮の言葉「チョル」が「テラ」と変化して行ったのが一番無理のない説のように思われます。「寺」が初めは「役所」、後「僧房」の意味で使われたことを考えると、(侍)さむらい(持)もつ(待)(まつ)塒(ねぐら)たのむ(恃)など、寺の付いた字の多くが「準備している。何か仕事をする状態でいる」ことを示していることがわかります。いつ、どなたが訪問して来られても良い状態であること。この姿が「寺」本来の形なのでしょう。掃除も行きとどき、どんなお話でもお相手ができること。これが理想的なお寺の姿かと気がついたとき、どうも脇の下を冷たい汗が流れでました。
寺は修行の場であるため人里離れた山に建てられることも多く、比叡山延暦寺、華頂山知恩院などと云います。その後、教化のために市中にでた寺でもその名残りで〇〇山と「山号」を付けます。金竜山浅草寺、三縁山増上寺は良い例です。このため「寺」の意に「山」を用い、「山内一同」「御山主」などと云います。知恩院などの「院」は「垣をめぐらした大きな建物」の意です。病院、児童院などと使います。「庵」は草葺の小さな建て物。「坊」はもと区画された町。転じて別当の建て物。混同して室、部屋。その部屋の住人に付けることになりました。こんなことを調べると寺にもいろいろ面白い話題もあるものです。「話の種に 浄土宗新聞連載 みほとけ講座」より

光忠寺だより 12月

廻向「回向」
われわれはよく故人の追善の廻向(回向)をするために、関係者を招いて法要を主催し、墓参りや寺参りをするが、果たしてそうすることによって故人の菩提がとむらわれ、霊が浮かばれるのか疑問に思われる方がいるにちがいない。廻向とはサンスクリット語でパリナーマナといい、「熟させる」とか「向けること」を意味し、自らが修められた行為の功徳を他に施すことによって、自他ともに救われることを指す。仏教ではもともと自業自得の原理を説き、自分の行為を他に転移できるものではないといわれてきた。しかし大乗仏教では運命共同体としての人間のいとなみを重視し、お互いが依存し合っているのであるからともに救われていく道をすすめている。これはちょうど、樹木と葉の関係にたとえられよう。個々の葉はそれぞれが独立した存在で炭酸同化作用をし、炭素ガスと水と太陽の光によってデンプンという炭水化物を合成し、酸素を放出している。そして、このデンプンは葉脈を通じて樹木全体の生育に活用され、幹や枝を伸ばしてゆく。個々の葉は自分の為とか樹木の為に意識的に働いているわけではなく、他のエネルギーのめぐみを受けて自然に発育しているのである。
われわれ人間も同様に、それぞれが独立した生活を営んでおり、物理的に自分が他の生命にとってかわることはできないが、精神的な影響を分ち合っている。他の苦しみや喜びを自分のものとし、、自分の苦しみや喜びを他のものとし、ともに苦楽を分ち合うことによってともに救われれてゆく道が開けよう。こうした抜苦与楽の大慈悲の精神が大乗仏教の特徴になっている。「喜びはともに分ち合えば倍加し、悲しみはともに分ち合えば半減する」ということから、冠婚葬祭などのつどいが関係者の間に行われ、それが人間的ないとなみになっている。われわれはそれぞれ独立した存在であるが、独立した存在ではありえないのである。故人への追善廻向も同様に、法要をいとなみ、仏菩薩像を刻み、寺院に金品などを寄進することによって、その功徳を故人の菩提に振り向けることは、原始仏教時代からすすめられ、先祖への報恩を強調する中国に仏教が伝来して増幅され、わが国でも古来の祖先崇拝と合体して広く行われて今日に至っている。
廻向には往相と還相の両面交通があり、往相とは自分が救われようと願うことで、そうすることによって、還相とは救いが向こう側からもたさわれることである。追善廻向の法要をいとなんで自分が救われようと思い立ち、実行することによって、法要を縁としてその功徳は仏の側から自分や参会者にもたされることになるので、それは決して一方通行ではないという。廻向とはこのように仏事を中心に功徳は自分から他に、他から自分に廻りめぐるのである。法要はするのではなく、させてもらうといえよう。 「わかりやすい仏教用語辞典」より

光忠寺だより 11月

供養 2

わたしは檀信徒の皆様の年回法要が終ったあとに、「本日お参りの皆様(あとに残された私たち)が善行を送る生き方をすることが一番の供養になるのです。」とよく話すのですが、先日大法輪(H29,9)を読んでいると、佐藤隆定氏が「供養」について「生き方が供養になる」ということを書かれていましたので、下記に一部抜粋してご紹介します。
『ちなみにうちにある辞書で供養を引いてみると、「①仏にものを供えて祈ること」「➁死んだ人の霊にものを供えること」となっていた。この場合、先の仏壇に何かを供えるという用法は➁のほうになる。①でも仏にものを供えるとなっており、亡くなった方のことを「仏」と呼ぶから、①も合っているじゃないかと思われるかもしれないが、①の仏とは亡くなった方のことではなく、主に僧侶のことをさしている。僧侶にものを供えることが、供養というのは、日本ではあまり馴染みのない考え方かもしれない。これは仏教国と呼ばれる国々を例にするとわかりやすい。タイやミャンマーのような人口の大半が仏教徒である国々では、現在でも純粋な托鉢が行われている。すなわち午前中に僧侶が町を歩き、人々から食料などの施しを受けて、布施・喜捨による生活を続けている。そこで行われている施しの行為を指して「僧侶を供養する」と表現することがあるのだ。①の用法は概ねこのことを指している。①の用法が存在していることから導かれるのは、供養とは、亡くなった方のみを対象とした行為ではないという事実。生きている方に対する施しもまた歴とした供養の一つ。しかも生きている人に対する供養が用法の一番で、亡くなった方に対する用法が二番であることが興味深い。ー略ー①と②の用法は、単にどちらも供養と呼ばれているというだけの話しではない。供養という行為に対する仏教の考え方を知ると、これらは当然のごとくどちらも供養と呼ばれなければおかしいことがわかる。生きている方を対象とする供養が存在しなければ、仏教における供養の意義は半減どころかごく限られたものとなってしまうのである。このことを理解する際に深く関わってくるのが、供養には三つの種類があるという冒頭の話しなのだ。
まず一つ目の利供養であるが、これは辞書に掲載されていたような内容とほとんど同様で、何かを供える行為をいう。故人の命日に故人が好きだった食べ物を供えたり、あるいは生きている人を対象として、なにかその人の利益に結びつくようなものを施したりすることが利供養である。
相手を利する供養の在り方だから利供養。次に二つ目の敬供養であるが、これは仏の教えを敬うことをいう。ただし敬うというだけではどうしても内容が漠然となってしまう。なのでもう少し具体的な事柄でこれを説明すると、おおよそ敬供養とは仏教を学ぶことと解釈することができる。
仏の教えを敬うとは、仏の教えを学ぶこと。仏教について勉強することというわけだ。それは文字どおり勉強するだけでなく。たとえば読経なども敬供養に含まれる。経典には仏の教えが書かれており、その言説を読むことが読経なのだから、ー略ー読経とは仏の教えを学ぶことそのものと言えるため、敬供養に含まれるというわけである。ー略ー一周忌や三回忌などの個人の命日に法事を勤めるのは、もちろん故人を供養することが目的。そしてその際に供物や読経や焼香といった行為がなされるのは、そもそもそれらが供養の具体例であるという考えが仏教に存在するからにほかならない。供物は法事の準備品や副次的なものではなく、メインの供養そのもの。こういった事実は当たり前の事柄のようでいて、意外としられていない。このような利供養と敬供養が、ともに供養であることに疑問を抱く方はおそらくいないだろう。ー略ーすると三つ目の行供養とはどういった事柄になるのか、別に三つ目の行供養がなくても問題ないのではないか、そんなふうに思われかねない。けれども仏教における供養というものの考え方を考慮すれば、むしろこの三つ目の行供養こそが供養の本筋であると考えられるのである。行供養とは、一言で説明すれば仏道修行をすることを意味している。行とは修行の意味だ。つまり仏道修行をすることが故人の供養になる。というのがこの行供養というものの考え方になる。ー略ー仏教では読経という善行によって、まず功徳が生まれると考える。善因善果という言葉があるが、善い行いは善い果報をもたらすと考えるのが仏教思想の根本にあるからだ。ー略ー善行によって生まれた功徳を、今度は故人のもとへ送るという祈りを行う。これを回向という。回向という祈りによって、善行は実質的に故人を供養する行為となる。こういった間接的な供養の流れを想定して、行供養は供養となりえるというわけだ。間接的な供養。つまり功徳を積んで、それを廻らすという供養の在り方を用いることで、仏教は供養となる行為をほとんど無限にといっていいほど広めることに成功した。利供養と敬供養は一部の行為に限定されるが、行供養には限りががない。あらゆる行為・善行が故人の供養となりえる。そしてこれは自分の生き方、つまりは残された者の生き方そのものが故人の供養になるということを意味するのである。自分の生き方が故人の供養につながる。これこそが行供養という考え方が存在する最大の意義といえる。なにか特定のことをしてあげることだけが供養ではなく。直接的には故人と関係のないことであっても、功徳を廻らすという方法によって善行は供養となりえる。善く生きることが供養につながるのである』という説明がなされていました。先立たれた方に喜んでいただける人生をこの私が送ること。また子や孫がしっかり人生を歩んでくれること。私なりに「生き方が供養になる」を読み学ばさせて頂きました。

 

光忠寺だより 9月・10月

供養 1

「供養」とはどういう意味なのか、一般的には年回法要の時に仏壇に蝋燭に火を灯し、花や線香や供物を供え先祖の精霊を供養することが頭に浮かんできます。「供養」という行いは何なのか、調べました。仏教語源散策「中村元編」より抜粋させて頂きました。
『「供養」のサンスクリット語原語では、プージャナーである。女性名詞プージャーまたプージャーナである。中世名詞のプージャナも供養と訳されているが、いずれも動詞の語源プージは「尊敬する」「崇拝する」という意味である。動詞プージャーは、「尊敬」「礼拝」を意味する。心に尊敬の念がおこること、こんどはそれを形として表すようになる。仏教の術語としては、精神的な尊敬から一歩すすめて、衣服、食物、坐具、薬品を仏教教団に提供することが、「供養」とよばれたのである。したがって、「供養」は、物品をささげて尊敬さるべき対象を養うこといい、献呈品の範囲を広げて、日常品、金銭あるいは土地などを三宝ー仏・法・僧ーに供することを主意とした。仏に対するのを仏供養、法に対するのを法供養、僧に対するのを僧供養という。仏教徒のなかに、仏像や塔に対する信仰礼拝の習慣が生じたとき、かれらは客を接待する作法を取り入れて礼拝の形式をつくりだしたと思われる。礼拝すべき対象に対して、生きている人をむかえて歓待するように、水、塗香、花、焼香、飲食、燈明などをささげて祈り、これを供養とよんだのである。
この礼拝形式がわが国に入ってくると、死者儀礼と結びついて、亡くなった人を仏とよび、その仏に香花をたむけるのを「供養」とした。そして、死者の冥福を祈る「追善供養」が、「供養」という語の意味の大きな部分をしめるところとなった。供養は人間から動物に、さらには無生物にまでおよび、最初に述べたように、さまざまの「供養」が行われているのである。「供養」は「尊敬」から「三宝への物品の提供」、「礼拝対象へ香花をたむけること」、「死者などに供物を献じてその霊をなうさめること」と、意味が変化してきた。
「供養」は、「尊敬」から「三宝への物品の提供」、「礼拝対象へ香花をたむけること」、死者などに供物を献じてその霊をなぐさめること」と、意味が変化してきた。
「供養」の語義変化は、日本人の意識構造を考える上で重要であると思われる。動物や無生物への供養は、アニミズムの遺産だ、といって非難するのは、まったくまとはずれの非難である。動物もやはり人間と同じく生命を有するものであるという意識はだいじにしたい。
日本人は、メガネや針に霊魂が存在していると信じて、供養を行っているわけではけっしてない。粗末にしては申しわけないという思い、感謝の念が根底に流れているのである。「供養」の原意が、「尊敬」であることをわすれず、このような精神を、今後もますます大切に保持することが必要であろう。』と説明がありました。
2500年前のお釈迦さまの時代には、供養は、死者に対してではなく生きている修行僧や仏の教えや仏教教団に対しての供施という意味あいが大きかったようです。

 

光忠寺だより 8月➁

お盆は どこからきた「言葉」なのか、どのような意味なのか 2

1.「盂蘭盆経」なぜ父親はでてこないのか、
前回は「盂蘭盆経」の内容に、目連尊者の亡母救話説に伴う盂蘭盆の設供と7月15日の僧自恣日に供養し、その功徳によって救われたという説話ですが、特に父親のことは出てこないのは、何か理由があるのか、母はいつの世でも子から「お母さん」と何があっても先ず一番に呼ばれるのは父親でなく母親です。また母強しで、生みの苦しみで子を産み、乳を飲ませ、時には心を厳しく育児し子を育てる意味では、男性よりはるかに強く尊い存在です。盂蘭盆経の冒頭に「乳哺の恩」と出てくるのはわかる気がします。古代インドでは男性は四住期という人生を四つに分け送るのが理想とされました。「1.勉学期間を学生期、2.家庭生活の期間を家住期、3.求道期間を林住期、4.伝道遊行期である。」人生の終盤には、遊行(遍歴して食物を乞い、ひたすら解脱を求める生活である。衣食住のすべてにおいて少欲知足を旨とする頭陀行、乞食行)をして自身の人生で経験した智慧を説法し、布施として衣食住を頂き死に場所を求め人生を終える習慣があったと言います。大法輪H3に「ー略ー目連の亡父はバラモンゆえに、その修道によって天上界に生まれたのである。では、なぜ亡母は餓鬼道へ堕ちたのであろうか。先に述べたように、インドでは古くから跡とりがない者は悪処へ落ちるとする俗信があり、バラモンは修行を終えてから結婚するが仏僧は出家すなわち家庭生活を営まないので、出家することは親を餓鬼道に堕とすという矛盾があったことになる。『盂蘭盆会』の成立は、その矛盾の解決を計った撰述とされるゆえんである。」《藤井正雄先生がお盆の由来「盂蘭盆経」を読む》と題して書かれていました。
2.盂蘭盆の原義は「鳥藍婆拏」か盆器か
盂蘭盆という言葉は「鳥藍婆拏」がなまったもので、その意味は倒懸であるとよく言われますが、その典拠となるのが中国の唐の時代に大慈恩寺の僧であった玄応が貞観年間(619~649)の据えに勅を奉じて撰述したと言われる『一切経音義』のつぎの記述による「盂蘭盆、この言は訛りなり。正しくは鳥藍婆拏という。西国の法を案ずるに、衆僧自恣の日、盛んに供俱を設け、仏僧に奉施して、以て先亡の倒懸の苦を救う。以うに
、彼の外書にいう、先亡罪あって家または嗣(跡継ぎ)を絶ち、人の神を祭って救いを請うことなければ、則ち鬼処において倒懸の苦を受く。仏、俗に順うといえども、また祭儀を設け、乃ち教において三宝田中に深く功徳を起こすと。旧に盂蘭盆はこれ食を貯うる器というも、この言は誤りなり。」とあり「鳥藍婆拏」が「盂蘭盆」の意味でサンスクリット語ullambanaに相当する音写で「倒懸の苦しみを受ける」と訳したところですが、「盂蘭盆経」竺法護訳には目連が「十方衆僧の7月15日の僧自恣の日に、当に七世の父母及び現在の父母厄難中に飯百味、五果、汲灌盆器、香油、錠燭、床敷、臥具を具え、世の甘美を尽して、盆中に箸け、十方の大徳衆僧に供養すべし。」とあり7月15日僧自恣の日にお供え物を載せる盆器として考えられていたようです。
仏教辞典では、盂蘭盆、盆は「盂蘭盆経」出る語の〈盆〉〈お盆〉と略称する。『玄応音義』13に基づき、正しくは「鳥藍婆拏」と書く、意味はサンスクリット語ullambanaで逆さ吊りをされた苦しみを受ける〈倒懸〉と漢訳され、さかさ吊りの苦痛を意味するといわれた。近年、イランの原語で霊魂を意味するウルヴァンurvanが言語だとする説もある。盂蘭盆経の説くところでは、目連救母説話に由来し、ともかく祖霊を死後の苦悩世界より救済する〈盂蘭盆会〉の仏事を生み、中国から日本に伝来して広く庶民に親しまれている。仏教の僧自恣の日と布施の思想、および中国の中元と孝の思想が絡み合い、先祖供養に欠かせない仏事となっている。
盂蘭盆会は(盆会、歓喜会、魂祭)ともいう、7月15日に精霊棚を作り、先祖の霊を招いて僧に読経してもらう、その際、僧にごちそう接待して功徳を積み、先祖に回向する。年一度の盆会に先祖が少しでも長逗留してほしいとの気持から、期間が拡大され、多くは7月13日より16日までとするが、7月全体を盆月とみなすこともある。農村部では農作業の関係から月遅れの8月15日、または旧暦で行うことが多い、旧暦の7月は秋であるから、盂蘭盆会は元来秋の仏事であった。
仏教辞典では、盆器にふれる説明はありませんが、上記の説明がありました。今年も檀家さんの棚経参りをさせて頂きました。一軒一軒ご先祖から受け継がれた精霊棚(盆棚)が作られ、先祖の精霊に農作物や果物、飲物、お菓子、ホオズキ等が供えられていました。盂蘭盆経には「供養の百味飲食」とあります。できる限りのお供え物ということだと思います。お盆の心いうと先祖を懐かしむ想いと先祖に感謝する心です。皆様の供養と布施の心を思い感じて棚経参りをさせて頂きました。南無阿弥陀仏  合掌

光忠寺だより 8月

盆とは、どこからきた「言葉」でどんな意味なのか? お盆は「供え物を容れた盆器」でした

お盆になると、昔から亀岡地方の慣習で先祖の精霊迎えに穴太寺さんへ行かれます。精霊迎えとして、境内で盆市がありホウズキを買います。このホウズキに精霊が乗って帰ってくるという考えがあります。初盆の方もお参りして水塔婆二枚に戒名を書き一枚は穴太寺で水向供養し残った一枚は精霊棚にお祀りされます。また、曽我部町の六地蔵巡りも合わせて昔からお参りが行われています。当山では、檀信徒の皆様は、8月8日の盆施餓鬼会に精霊迎えとしてお参りに来られます。施餓鬼会でご回向(供養)した塔婆は、各自が持ち帰り各家のお仏壇や精霊棚にお祀りし15日夕方あるいは16日に墓に供え、精霊をお浄土へお送りになります。私もお盆の「原義」がどこからきたのか、どんな意味があるのか、わかりません。書棚を調べましたら少し「お盆」のことが載っていました。(書棚といっても大法輪しかないのですが)
お盆は「仏説盂蘭盆経」に由来しています。また日本古来の先祖祭祀と仏教行事の盂蘭盆会が習合して国民的行事として現在に伝わっています。お盆の由来となった盂蘭盆経の内容とは、前段「釈尊の弟子目連が、六神通によって亡母が餓鬼道に堕ちた哀れな姿になっているのをみる。嘆き悲しんだ目連は、釈尊に救いを求めた。釈尊は7月15日僧自恣の日に、多くの衆僧が一堂に集まるので、衆僧に百味飲食を供養して回向を頼めば、亡母は救われることを説かれた。目連は盂蘭盆会を行い亡母はその功徳をよって、餓鬼の苦しみより離れ救われたという話しです。続いて後段には、お釈迦さまは、「ここに集う私の弟子で、親に仕え孝心の誠を尽くす者は、常に生みの父母を憶いおこし、また生みの父母から七世の父母にいたるまで供養しなさい。毎年7月15日には、常に親を慈しむ孝心の誠を尽くして、生みの父母から七世の父母を憶いおこし、そのために盂蘭盆の法会を営み、仏および僧に施し、もって慈しみ、養い育ててくださった父母の恩に報いなさい。仏弟子となろうとする者は、当然のこととしてこの教えを守らなければならない。」その時、目連比丘ならびに釈尊の説かれる教えを聞いて、心から喜び、その教えを実践したのであった。仏の説きたまえる盂蘭盆の教えを終わる。と書かれていました。前段と後段に共通しているのが、父母へ孝順の心で、盂蘭盆会が行われて苦から救われるということですが、お盆の本来の意味は、一般的にウランバナがなまったもので、「逆さにつるされる苦しみをうける」とよく言われていますが、伊藤唯心御門主が「お盆行事の歴史」平成3年大法輪8月に、『盂蘭盆経』の本文では倒懸を示唆する語句がなく、通説のような梵語ullambanaは梵語文献にも見当たらず、中国語の熟語でもないので、最近、西域地方に伝播していた他の言語で解すべきだとする説が現われ、イランの原語で、霊魂、特に死者のそれを意味するウルヴァン(urvan)が盂蘭盆の原語である。とされた(岩本「目連伝説と盂蘭盆)盂蘭盆の行事は確かに亡魂祭祀の性格が色濃いから、この所説はきわめて注目される。玄応の解釈依頼、十三世紀半ぶりに提示されたこの新説に従うならば、盂蘭盆の語は死者の霊魂、亡魂を意味するものであったが、盂蘭盆会が流行した六世紀以降の中国ではすでに原語の意味が不明となり、盂蘭盆を字面通りに盆器の一種、供養の品を乗せる容器と解されていた。『仏説盂蘭盆経』自体、本文中に「孝順を行う者、また応にこの盂蘭盆を奉れ」「百味飲食を以て盂蘭盆中に安んじ、十方の自恣僧に施せ」の文句があることで明らかである。『法苑珠林』六十二によれば、唐初には盛んに盆器が作られ、供養の百味飲食を容れて、寺僧に献供されていた。このように、中国人は盂蘭盆を盆器と考えていた。
ところで、自恣日における衆僧への飲食供養が「まさに奉持すべき法」によれば、衆僧の呪願によって現存する父母の延寿無病と餓鬼道に堕ちた七世父母の離苦得生がはたされるからであった。供養の対象は自恣僧ではあるが、施主の意趣は所生の父母ないし七世父母の救度にあった。それゆえ「盂蘭盆を作りて仏および僧に施す」ことは、引いては所生の父母を憶念し、厄難中の七世父母を供養する法であった。したがって盂蘭盆供は死者供養を一つの重要な機能とするものであった。つまり盂蘭盆会は原語ウルヴァンと初めから関りをもっていたわけで、内容的には原義に即した霊魂祭祀ないし死者供養の性格を帯びていたのである。中国では先に述べたように盂蘭盆を盆すなわち飲食物を載せる器物と考えたが、『仏説盂蘭盆経』による以上、わが国でも事情は同じであった。日本では盂蘭盆会が修されたのは推古天皇十四年(606)の事である。『日本書記』に「この年より初めて寺ごとに、四月八日、七月十五日に設斎す」と出ている。ー略ーこのように盂蘭盆会は宮廷・諸大寺を中心に貴族社会の間で盛んとなったが、「盂蘭盆」を盆器と解していたことは「永観二年(984)に成った源の為憲の『三宝絵詞』の「盂蘭盆」の記載でも窺われる。盆器に載せた百味飲食の供養、即ち盆供が重視され、盂蘭盆会のことを「ぼにのこと」、盆供を営むことを「ぼになどする」(以上『蜻蛉日記』上、下)「ぼんを奉る」(『枕草紙』)などの語句で代表された。以上伊藤唯心御門主の「お盆行事の歴史」の一部を抜粋させて頂きました。私の気になるところとして、盂蘭盆経には、母乳哺の恩、父母の恩は出てきましたが、父親は一度も出てきません。また通説の鳥藍婆拏(ullrambana)も出てきません。お盆が終った頃にもう少し調べてみたいと思います。今日は盆施餓鬼の準備や棚経参りで忙しいお盆の一日です。

光忠寺だより 6・7月

戒律
仏教の教えを奉ずるものは、また仏の制し給うた生活上の禁戒を遵守しなければならない。これが戒律である。世間においては、世間の秩序を守るべく、国家が制した「法律」があるが、出世間の仏教において、教団の秩序を守り、仏教的生活を確立するために、僧・俗に求められたものが戒律であった。いわば仏教の法律が戒律であった。といってよい。しかし戒律と法律には重要なちがいがあることはもちろんである。まず第一に「法律は最低の道徳」といわれているように、進んで善をなすよりも、悪を止めることに最大の努力が払われ、そのことを守らぬものに対しては、国家の力が及んで罰を加えるものである。いかなる罪にいかなる罰が価するかということであるが、世間の法律の大部分の課題とみられるのはこのためである。これに対して、戒律は、それに止まらないところに大きな特色がある。もちろん、戒律も犯すものには、大きな罰則を、しかも、細かく、具体的に設けている。しかし、だからと言って、戒律を罰することを目的とする、仏教徒の禁令集とみるひとはあるまい。
戒律の定義、「戒」と「律」との同異についてはいろいろあるが、「戒」は「作善」すなわち、善いことを作すことをいい、「律」とは。「止悪」、すなわち「悪」を止めることという、伝統的説明がある。「戒律」が決して禁令に止まるものでないことを見るに好い説明ということができよう。第二に、この「戒律」は、また、世上のように、定めることを目的として定めたものでなかった。仏は決して、初めから、人の悪心・悪事を忖度して、戒律の条文を何百となく制定していったのではなかった。たとえば、比丘にとって、もっとも重い四つの罪(教団から追堕されるため四堕罪といい、また原音をとって、「四波羅夷罪」ともいう)の第一に位する「淫戒」でもヴェーサーリー国のカランダカ村出身のスディンナブッダという仏弟子が比丘となってしまったため、相続人である子供ができないことを心配した母が、スディンナブッダがたまたま村に布教に来たとき、その、のこされた嫁を盛装して、もとの夫たるスディンナブッダのところに訪ねさせ、あえて不浄行を行わせたことに端を発して、仏がその非なることを定めたもうたとされる(『四分律』)同様に、次に重い罪である「盗戒」も、ダニカ「檀尼迦」という、元陶工の子であった仏弟子が、勝手に、魔渇王の瓶沙の木材をとって寺房をつくったことに端を発してる(同前)。このように、戒律は、侵すものがあって初めて定められていったもので、これを「髄犯髄制」(罪過を侵すもののあるに随って、これを制止する戒律を随次制定)と言っている。世上の法律と異なるゆえんは明らかであろう。こうして、戒律は、時と処に応じて無数につくられていった。戒律の学問が律宗として独立したとき、きわめて煩雑な註釈学となった一つの理由はここにある。戒律は、どういう人が、どこで、どのような罪を犯したかを綿密に考察して過罪に量刑していかなくてはならなかったからである。「戒と律」のもう一つの解釈に、「戒」とは、個々の条文をいい、「律」とはそれを集成した文献、すなわち「律蔵」をいうというものや、さらに「律は出家のみ、戒は在家のみ」などということがいわれたのもこのためである。事実、戒律の実際は、すこぶる細かく分類されていった。まず、在家戒と出家戒は形の上でも大きくちがっている。「在家戒」としては、「不殺生」「不倫盗」「不邪淫」「不妄語」「不飲酒」の五戒があるが、これに「不非時食戒」を加えれば「六法戒」となり、さらに、これに「離塗飾香鬘舞歌観聴戒」と「離眠坐高広厳麗床上戒」の二つを加えると「八斎戒」になる。ともに在家男女の重要な戒律として実行された。これに対して、出家の男女たる比丘は、それぞれ二二七戒(『南方広律』。『四分律』では二五〇戒)・三一一戒(同。三四八戒)という細かい条目から成る戒律(大戒・具足戒)を受け(受戒)、守り(持戒)、、定学・慧学と合わせ羅漢果(さとり)を得ることが要求される。在家戒が形より心を、の戒律であるのに対して、出家戒は形から心へ及ぶ戒の匂いが強いといえようか。しかし、両者が決定的にちがうものでないこともまた忘れてはならない。在家戒の代表である五戒のうち、初めの四つは、順序を代えてではあるが(淫・盗・殺・妄)、出家者の「四随罪」そのものであることは前に述べた通りであるし、見習いの比丘である沙弥や沙弥尼の守るべき「十戒」も、「六法戒」に「離舞歌観聴」と「離香油塗身」「離眠高広大床」をそれぞれ一つと数えて加え、さらに「離金銀宝物」を一つ加えたものである。いま見た出家戒と在家戒のちがいは、主として南方上座部の仏教について言えることであるが、北方の、われわれ大乗仏教のうちに入ってきても、事情は同じであった。「菩薩戒」という名のもとに、在家戒、或いは、「出家・在家の通戒」が「三じゅ浄戒」、或いは「三昧耶戒」「十善戒」の名のもとにつくられている。これらはいずれも形よりも心を重んずる点で、在家戒の色彩がつよく、それゆえに、これを併存して、僧侶は小乗戒の系統に立つ「四分律」や「五分律」に従っていたのであるが、今日、その併存は崩れた。ここに、戒律の今後の問題点がある。大法輪選書「悟りへ道・重要語」より

光忠寺だより 五月

きょう〔経〕
経とはサンスクリット語のスートラ、パーリ語のスッタの翻訳である。スートラとは織物のたて糸のことである。おそらく複雑で難解なことがらを要領よく簡潔な形でまとめたものがこのように呼ばれたのであろう。釈尊は成道の後、鹿野苑で初めてかつての苦行の修行仲間に教えを説いてから、八十歳でクシナガラで入滅するまでの間に、みずからの直接の弟子である修行僧や在俗の信者たちに、多くの形でいろいろの内容のことが
らを説いたにちがいない。釈尊の生涯の説法は、入滅ののち次第に散佚してしまう可能性がある。そこで釈尊の教えの編集事業が行われた。その指導者は釈尊の直弟子の一人マハーカーシャパ(大迦葉)であったらしい。その結果、王舎城に五百人の直弟子たちが集まり、編集を行った。
その編集事業を結集という。その編集はおそらく多人数で一緒にとなえるものであったらしい。このときの結集を第一結集という。そのときに釈尊が説いた教説がまとまった短い文章に編集されたと考えられる。おそらくは網要書的な、記憶しやすい形のものであったであろう。またこれとは別に、修行僧が自発的に守るべき生活規範や教団における団体生活上守るべき生活規範なども、同様な形で簡潔にまとめられたらしい。釈尊の教説をまとめたものは、おそらく後世に集成される経蔵の基本となったものであろう。また生活規範の集成は、同様に後世の律蔵のもととなったと思われる。釈尊の入滅の後百年ころに、七百人の修行者がヴァイシャ―リーに集まって、その修行者たちの戒律違反事件について論議した。これを第二結集と言うが、これを機に教団は分裂し、以後さらに細かく分裂する。仏教はいわゆる部派仏教の時代に入ったのである。ところで釈尊の生きていたころから、かれの直接の弟子たちは、釈尊の教えについてみずから思索したり研究したりしていたものと思われる。いわばそれは釈尊の教えを通じて真理を直接探究することである。こうした研究をアルダルマ(阿毘達磨)という。このようなことは後世もひきつづきなされたが、これらの研究文献がまとめられ、編纂されたものが論蔵である。そして論蔵が編纂されたのは部派仏教の時期においてであった。釈尊の滅後、第一結集の時に編集された経蔵や律蔵の基本となるものにも、さらに種々に要素が加えられたと考えられる。最終的に編集を完了した経蔵・律蔵に、さらに論蔵を加えたものを三蔵と称する。いわば仏教文献の総集成である。また経・律・論の三蔵に通暁した学僧のことを三蔵法師と称する。唐の時代にインドに決死的旅行を行った玄奘は、この三蔵法師の代名詞となっている。      わかりやすい仏教用語辞典より

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