お寺あれこれ 92

元旦 本堂諸堂お参り
明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願い致します。
 昨年暮れ12月30日に光忠寺の銘の入った涅槃図が帰って来られました。今から約四十年前に老僧(父)が預けたままの状態だったそうです。その方もお亡くなりになられた状況の中、老僧の一言を思い出し、私からもしやと思い、お尋ねしたところ、その方の倉庫から涅槃図が出てきました。          
 今となっては、誰も責めることはできませんが、無事お帰りになられたことは、何よりも有難いことです。しかし絹本と裂の劣化が進み、ひどい状況ですが、なんとか修復をしなければなりません。

お寺あれこれ 91

庭の灯籠、蹲、手水鉢、飛び石、古いものには何か味わいを感じるのは不思議なものです。私に目利きがあるわけでもなし、価値も分からないが、見ていあるだけで心が落ち着きます。墓石もそうである。時代によって形や字体が違うからおもしろい、永い年月により墓石も風化し、形が崩れ、苔がつき、それも味わいです。しかし自分が入る歴代墓には、どんな字が彫られるのか、やはり気になるので、友人に頼み、私好みの書体で書いて頂き、その字を石材店に彫っていただいたのである。字も石質や色や刻印の深さにもよるが、其々に味わいが変わってきます。当山の境内墓地にも古いものがあり、ぞれぞれ書体が違うが、その中に美しい楷書で刻まれた墓碑があり、何方の墓なのか、調べると江戸期の学者の末裔の方であるが、掃除の時には、いつも気になっていた、今は後が絶えお参りする方もないのでそっと心の中でお参りしていました。
 現在に伝わる庭の置石や敷石は、旧墓石から利用されたものが多いが、当山の庭にも多くの廃材を利用しています。
 今年もあと一ヶ月になりましたが、新型コロナ感染拡大が終息することを願い年末の大掃除と新年の準備にかかりたいと思います。お互いに気を付けましょう。


 
 

お寺あれこれ 89


今日の午前中は、境内の草引きとこの時期に伸びた庭木の枝を切る作業をしていました。以前の様に、終日身体を動かす体力もありませんので、時間を決め、体力が続く限り掃除を楽しみたいものです。コロナ禍で寺にお参りになる方もめっきり少なくなりました。と言いたいのですが、当寺は小寺ですから昔から檀信徒の方がお寄りになることが少ないのです。それにしても最近の葬式や法事は家族だけのお参りが多くなり、ますます人と人とが関わる機会がなくなりました。
午後からは二男の嫁が、姪っ子の髪をきってくれるというので、長男と次男の家族が寺に来てくれました。夕食をすませたあと、東の尾根から昇る仲秋の名月を見ながら、楽しく過ごしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

お寺あれこれ 88

コロナ禍の中で

2月以降当山での別時念仏会を中止しています。浄土宗は声に出し、念仏を称えることが教えとなっています。「南無阿弥陀仏」と声を発声することで、飛沫感染になるリスクが高まる可能性があるわけですが、そう考えると、多数の檀信徒が集まる寺での行事が何もできなくなるわけです。当山のような小さな本堂では、ソーシャルジスタンスで2m間隔としますと、15〜20名の席が限界です。もちろん換気を考え、障子や襖の両側を30㎝ほど開けますので、本堂内でも、庭の石畳みや屋根の照り返しで、暑さが厳しい状況です。当寺も多数の檀信徒がお参りできないこの時期に、様々な事を検討し、いかにしてお参りの皆さんが、お念仏を称えられるように工夫しなければならないと思います。府下の新型コロナ感染の状況を見ながら、十月から別時念仏会を再開したいと思います。盆施餓鬼会に引き続き、彼岸会は混雑を避けるため、檀信徒を地域別に時間差をつけお参りしていただくことにしました。以前の様に、本堂でともどもに念仏を称えることもできず、またお茶を飲みながら、笑顔で語ることもできない嘆かわしい状況ですが、コロナ禍の中でも、生まれ育った場所の大切さを思い、一人でも仏壇の前や自分の部屋でも、行住坐臥、いつでも、どこでも、お念仏が称えられるようにして頂きたいものです。法然上人も自分の耳に聞えるほどの念仏で十分だと仰っています。コロナ禍のなかでは、少し控えめにお念仏を称えることも仕方ないことだと思います。こういうときだからこそ、家族や友人やご近所など。人々の絆を深め、お念仏を称えお互い前向きに生きていきたいものです。

お寺あれこれ 87

お盆を迎える

お盆というと、連想されるのは、夏休み、帰省ラッシュ、旅行、盆踊り、お墓参りなどでしょうか、本来の「先祖祭り」の意義が薄れて、習慣となり形式的になってしまった感があります。昔は仏壇の前に先祖さまの精霊棚(盆棚)や縁側に、無縁のすべての精霊の為に精霊棚(餓鬼棚)をつくり、蓮の葉の上に水滴をたらした閼伽(あか)水、団子、キュウリやナスで作った馬や牛を供え、先祖の精霊を迎えました。
 夏の暑い日に、お供物で飾った盆棚に、ともしび(迎え火、送り火)をつけ、おじいさんやおばあさんがいるんですよと、家族が集まり、自分の先祖のことなどを想い出し、こどもたちに、「ご先祖さまがいるんですよ」とだんだんと肌で感じさせたのです。
 そんなお盆も遠い昔のことですが、特に今年は、コロナ禍の中で、新しい生活スタイルがはじまりました。家族葬が進み、孤独葬とか個人葬でも言うのでしょうか、数名の葬式や法要となり激変しました。新型コロナウイルス感染防止のため、当寺も春彼岸会は住職と副住職のみで法要を勤めました。盆施餓鬼会は、檀信徒を地域別に時間を決め、本堂は全開し、四ヶ寺の随喜寺院をおことわりして、本堂内は三密を考慮し、少人数の随喜で法要を勤めました。新型コロナウイルス感染の終息が見られるまでは、今後の行事、法要、内容、日時については、当分の間、変更、中止等の可能性があるので、檀信徒の皆さんはその都度、行事、法要の案内状を確認して下さい。
 また他寺院によって、コロナ感染防止の対策が様々です、ある寺では、今までと変わりなく法要を行うところ、また別な寺では施餓鬼会は、総代役員のみで行うところ、また別な寺では、棚経参りも寺の施餓鬼会も全て中止し、またある寺では、本堂でお盆の三日間、朝夕住職のみでお勤めをし、檀家の皆様は、その時間にお仏壇でお参りをして頂くところ、お布施は総代役員さんが集金されたお寺さんなどほんとにさまざまです。
話しは変わりますが、新型コロナの影響だと思われるが、長年、愛読した大法輪が先月号で休刊となる。私住職にとっては、特定の宗派だけではなく、他宗派や他宗教の教えや仏教者、仏教学者、哲学者、文学者、芸術家等々の特集や連載を読ませて頂きました。この大法輪は、自分の考え方だけではなく、「他者を知り学ぶこと」を教えて頂いたような気がします。編集に関わられた方やご執筆者の皆様には、読者の一人として、あらためて感謝申し上げます。せつに再刊を願っております。ありがとうございました。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お寺あれこれ 86

歴代の古五条袈裟・古七条袈裟の使い道「軸装の裂地に使用」

先代の衣や袈裟で使い古したものは処分したが、昔の七條だけは捨てきれず、裏生地を直し大切に保管してきた。保存するだけでも修理が必要です。調べると明治期の法衣帳にすでに記載がある。白茶地金襴七條袈裟、紺紋博多五条袈裟、白茶地菊御紋散袈裟、白塩瀬金蓮花散七條袈裟、蜀紅錦七條袈裟などあるものないものもある、どの袈裟がどれなのかわからない。なんとか使えないものか、着てみたが、すべて小さく柄が現代には地味である。以前本山の御忌随喜に着てみたが、私だけが浮いた感じであった、当時の織物職人の心意気がわかり、私的には好みである。コロナ自粛中に物置を整理していると、虫に喰われた軸があり、以前処分するか悩んだものである。この軸をさらに調べると、当寺に由来ものであることが分かり、私が住職引退までに表装修復しなければという気持ちになる。いい機会であるので、表具さんに持ち込み、この古袈裟(七條)を裂に使っていただくことになった。江戸末期から明治期の歴代住職が使かわれたものであり、七條袈裟(織物、刺繍)自体も現代の機械で織ったものではなく、織物職人が時間をかけ織られたものある、私の好みの軸装に仕上がってほしいものである。しかし、それが本紙に調和するかはわからない。本職の職人さんでも優れた色彩感覚をお持ちでないといいものができない。
本来袈裟は、人々から古着を頂き繋ぎ合わせてつくられたものです。昔の麻壊色の如法衣(糞掃衣を思わせる)もいいが、儀式用に作られた金襴もきらびやかでいいものである。寺什物として、何かに利用して今後も残していきたいものです。

お寺あれこれ 85

寺での自粛生活 2 野菜作り 
 今年も孫と夏野菜を色々と作っています。楽しみながら収穫をします。

お寺あれこれ 84

寺での自粛生活のひととき 1

コロナ感染防止による自粛生活で、私も普段できない過去帳の整理や軸の虫干しをしていました。特に以前から気になってました歴代上人や寺の資料の確認や形原松平家藩主の歴史に伝承する資料から、改めて寺と松平家の歴史が伝えられなく風化したものが、あまりにも多くあり、残念でなりません。私も若い時は、何も考えず、虫に喰われた埃まみれの「歴代住持がまとめられた自筆」の八宗要綱等の経典や注釈書や寺の日鑑がありましたが、本堂建築の際に処分しました。せめて研究をなさる学者の方に見て頂いてから、と今になって後悔が残ります。何も知らないということは、恐ろしいものです。
最近、僧侶の派遣業者と思われる方から、電話があり、檀家以外の葬儀をされているか、という問い合わせのである、詳しく内容は聞かず、即座にお断りした。どのような業者の方からもわからず、電話一本で葬儀のことを話すことはできません。しかし個人で、お困りの方からの問い合わせや相談があれば、できれば寺に来て頂いて、お話を聞いています。
墓の相談も同じである。両親・ご先祖や自身ががお入りになる光忠寺境内墓地であるならば、阿弥陀仏に対する信仰があり、ご両親や先祖に対する感謝を持ちお参りし供養していただきたいものです。そうでなければ、いきつくところは墓所の墓場になるか、近年電車の荷物台に置き忘れられた遺骨が多々あるそうです。それと変わらない状況であるならば、置き捨てられた墓所(遺骨)ではないでしょうか。せめて自分が元気な内は、お参りしていただきたいものです。
ここ最近問い合わせやご相談がありましたが、できれば同じ宗派の寺院で探されるか、宗派がなければ、宗派問わずの大きな霊園をすすめしました。(葬儀の導師は葬儀社から紹介された僧侶・住職であるという)
寺へ来て住職と話さなければならない、煩わしさを考えると、メールや電話で自身の要望や答えが得られる、またその後も煩わしい関係も持ちたくない現代人にとっては、利便性や効率性や経済性のみで、葬儀や墓所までが判断されるのである。しかし、私が今まで見てきた限りでは、こんな方は供養も長続きはせず、間に合せの告別式であり、葬儀の意味も深く考えることなく、自身がどこから生まれ、どう生き、どこへ死んでいくのか、自身に問われたことはあるのでしょうか、ご先祖から受け継がれた墓も無縁墓になる方が多いのです。例え寺の永代供養墓に永代供養し納骨されても、供養された人、供養した人、供養の心は、永遠に必要なものです。
新型コロナ感染により、多くの尊い命が失われました、心からお悔やみを申し上げます。新型コロナ感染で亡くなられた方は、臨終にも身内の方が立ち会うこともできず、葬式もできないニュースが報道されましたが、心が痛みます。またニューヨークでは多くのご遺体が冷凍トラックに詰められた状態のことが報道されました。また離島に埋葬所が掘られられ、一度に何十体という遺体が土葬で埋葬されるところが写っていました。ショッキングな映像でした。埋葬される方にも、それぞれに人生があることを思うと、改めて心が痛みます。私にできることはなにもありませんが、本堂での朝のお勤めで、亡くなられた全ての方々にご供養をすることです。南無阿弥陀仏





お寺あれこれ 83

写真の取り込みの方法が分からなく牡丹の写真が今になってしまいました。今年は土壌改良をしましたので、幾分か花が持ち直しました。

お寺あれこれ 82

新型コロナウイルス感染防止とお寺あれこれ状況

新型コロナウイルスが首都圏や大都市ではクラスター感染の兆候が出てきているようです。当山から見える山々にはところどころに桜が咲いているのがわかります。花見という気持ちにもなれず、今は不要不急な外出はひかえなければなりません。
先日、檀信徒の方の葬式があり、幸いに喪主の意向で、住職と親族お二人のみで参列者なしの葬義式でした。ニュースによると、四国で通夜・葬式の参列に行かれ、新型コロナウイルスに参列者数人が感染された、と報道がありました。当山も4月には、数件の法事が入っていますが、親戚は呼ばれず家族のみで執り行われます。檀信徒の皆様が寺に来られる日々が続いています。出来るだけ距離をとり、用事は玄関ですまし帰って頂いています。葬儀や結婚式などの冠婚葬祭には人が集まるのが、つきものですが、当事者や関係者(招待者)であれば、延期や規模の縮小など、なかなか決断することができませんが、非常事態のこの時期は、葬式や法事もできる限り、安全で安心な方法で、対処しなければ大切な人の命を奪うことになりかねません。今日も東京から訪問者があるが不安もございます。