お寺あれこれ 4

イスラム国から難民がヨーロッパ各国へ流れ混んでします。昨年の秋頃であったと思うのですが、トルコ沿岸の海辺に小さな幼児の遺体が流れ着き、世界に衝撃を与えたニュース映像が流れました。その映像を見た時には何とも言えない悲しい気持ちになりました。また日本の幼児殺人事件のニュースは、幼児が母親と同居する男性に暴力により殺されました。「ママ苦しいの」と言って死んで逝かれたそうです。世界では戦争やテロによる無差別な殺戮で多くの一般民衆(特に老人や女性や幼い子供)が犠牲になっています。また今回の事件は、信じられない動機です。「幼児が犯人の顔を睨んだから」と言うのが、犯人が暴力をした動機です。なんの抵抗もできない三つになる幼児を暴力で殺したのです。親が子を、子が親を、・・・このような事件が後を絶ちません。現代の社会においてもこのような残酷な悲惨な事件が後を絶つことなく起こるのは、まさに平安時代となんらかわない末法社会そのものです。浄土宗の教えでは、阿弥陀さまの「本願」で誓われた「設我得佛、十方衆生・・略・・唯除五逆 誹謗正法」の御文には、すべての人々が真実の心で、お浄土に生まれたいと、例え一声でも十声でも念仏すれば、必ず人々をお浄土へ救い取るという「本願」を誓われました。しかし本願の中に「五逆と誹謗正法」は除くとあります。五逆罪とは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出す、和合僧を破る、の五つです。正法を誹謗するとは、仏教の教えを非難すること、の二つの罪を除くとあります。「極悪人でも往生できるのか」このところをどのように理解すればいいのか、私たち人間として、罪を憎んで、人を憎まずと言われますが、わが身が被害者となれば、やはり罪と同じく加害者(犯罪者)を憎み法(法律)のもっとも重い処罰を求めます。そこには犯罪と共に加害者をも絶対に許さない憎悪の気持ちが残ります。私なんかは僧侶でありながら感情が前に出てしまう愚か者であります。冷静な判断ができないものです。阿弥陀さまの本願には、「十方衆生」とすべての衆生を救うとお誓いになりましたが、その偈文の最後に唯除五逆誹謗正法が付け加えられた真意は、私たちが日常生活の中で、気づいているようで、気づかずにいる私たちに、現実重罪は犯してはいないけれど、心の中では、数々の重罪を犯している私たちに、「阿弥陀さまの大慈悲」をより深く考えるようお示しになったのではないでしょうか、自分だけの幸せ「悟り」では、戦争や犯罪がなくならないわけです。真の平和な社会が来ないのです。そのためには阿弥陀さまは、縁あるもの、縁なきもの、信ずるもの、信じないもの、善人、悪人の別なくすべての人々を平等に救うことができる「西方極楽浄土」の仏国土をつくり念仏の教えを示されたのです。極悪人も罪を償い一心に阿弥陀さまの名を称えれば、お浄土に往生できるのです。阿弥陀さまは 私たちに五逆と誹謗正法の罪がどれほどおそろしい罪であるかを知らせる事と五逆罪と誹謗正法罪をさせてはらなない「阿弥陀さまとお釈迦さま」からの強い願いであると受けさせていただきました。罪人はこの世においても罪を法で罰せられます。なんの反省も仏心も無いもの罪も償わないものはあの世においても無間地獄に堕ちるのである。、無量寿経には、極悪非道の限りを尽くす極悪人は。命尽きたときは、あの世でも三つの世界(地獄、餓鬼、畜生)に自ら堕ち、想像を絶する苦しみを受けるのである。その身を転じて姿も住む世界も替える。みなつぎつぎとそこに生まれる。互いにやりやっては、いつまでもつきることがない。罪深い悪業が尽き果てないのであれば、なんども生まれ変わり、離れる機会もなく、その苦しみから離れがたい。その痛ましさたるや筆舌に尽くしがたいのである。その苦しみは大火でわが身を焼く尽くすような苦しみである。・・・・と五悪の説明が説かれています。また今わたし(釈迦)はこの世で仏となったが、五悪、五痛、五焼に満ちたこの世界に生きる人々を導くことは、最大の困難であるが、人々を正しく導き、五悪を犯さぬようにさせ、五痛を取り除き、五焼を受けないようにさせる。さらに人々の邪な心を正して、導き、五善を修めさせ、結果この世で幸福となり、生死の世界から解脱し、極楽に往生し長生きして悟りに至るという道を歩ませるのだ。とお釈迦様が弥勒に説かれました。(無量寿経の中に)わたしの勝手な考えですが、「唯除」はここに阿弥陀さまとお釈迦さまの強い思いがあるように思います。

 

 

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