お寺あれこれ 12

靖国神社に思う 2
政府軍側だけの戦死者を招魂した靖国神社(東京招魂社)の建立場所は、「旧幕府軍の歩兵駐屯所です。つまり旧敵地です。国事に殉難する覚悟で戦いながら、同士を失って勝ち残った薩長兵や、殉難者の犠牲で権力が樹立できたと考える新政府官僚の偏った考えです。かつての敵地に魂を招くことこそ、勝利を確信し、殉難者の無念を晴らすにもふさわしいと考えたのです。-略―もしも仏教怨親平等思想の考えで供養するならば、供養の対象となった1万余もの魂が排除され、彼らの命を奪った側にいた魂だけ神となったわけです。その選び分けの思考基準は、招魂の際の祝辞に端的に表れています。天皇の大御詔に困りて軍務管知事宮嘉彰白さく。昨年の伏見の役より始めて今年函館の役に至るまで、国々の戦場に立ちて、海ゆかば水芙付屍、額には矢に立つとも背には、と言立て・・・3588名の魂を招き降ろした祭儀の最も中心的な思想がここに凝縮しています。万葉集の「海ゆかば水漬屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺こそ死なめ、顧みはせじ」下の句をさらに強烈な方向へ転換させています。海へ行こうとも山へ行こうとも天皇のためには命を捨てる。敵と相対すれば必ず正面から戦い、背を向けずに死ぬまで戦う。こう誓って戦死した「魂」を招いたというのだ、というのです。この招魂祭から70年後、大伴家持の歌に信時潔が曲を付けた「海ゆかば」が世にでます。」《大法輪カルチャー明治維新と仏教》から抜粋ー武士道を捻じ曲げた軍国主義者と一部の政治家によって多くの若い兵士や国民が亡くなられたことは絶対に忘れてはいけないことです。日清戦争、日ロ戦争、台湾・韓国植民地統治、満州事変、太平洋戦争と突き進み、現在の靖国神社には国家のためにお亡くなられた方々が246万6千余の神霊として祀られています。東京招魂社は一般神社とは異なる存在で数々の不安定要素があるため正規の神社に改めようとする軍部の要請で、明治天皇の裁可を得て、明治12年(1879)6月1日に「靖国神社」と改名し別格官幣社となり明治政府から国家(内務省)が管理し、大日本帝国陸軍と同海軍が祭事を統括しました。戦後は信教の自由や人権の保障がある日本国憲法「民主主義国家」となり、国家の管理から東京知事の承認で靖国神社は単立宗教法人となりました。(神社本庁の包括団体ではない)私は一度も靖国神社へお参りしていない。戦場に行かれ無事帰還された兵士経験者が必ず「絶対に戦争を起こしてはならない」言われる、このことば「非戦」に尽きるのである。しかし明治維新という政体変革のところ250年続いた幕藩体制責められる側と新政府側責める側もともに外国の力に頼るのをよしとしない有力な骨のある指導者がいました。日本国を思う先人の努力があってこそ日本が植民地にもならず、近代国家にもなりました。今の私たちは民主主義国家で当たり前のようになに不自由なく生きていますが、この自由を与えて下さった先人の努力と心を忘れてはならない。政治にも自分の考えを持ち選挙に投票に行く責任があります。政治家にも責任があるが、国民の政治に対する意識の低さが国家をだめにしてる。大法輪「仏教の眼・リレーコラム」仏教から発言。→『紀州高野山奥ノ院には文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で戦死した者を供養するために島津義弘が建立した「高麗陣敵味方碑」がある。敵味方の差別なく死者はすべて絶対平等であるという慈悲心にもとづくものである。こうした「怨親平等」は仏教の崇高な思想である。また仏教で三界万霊を供養するのもどうようである。自国の戦没者だけに限らず、かつての敵味方を超えて全戦没者をー民間人まで手厚く合祀するメモリアルが、わが国でも世界に先駆けてできないものか』とすでに12年前に真言宗智山派管長の宮坂宥勝(名古屋大学名誉教授)師が発言されています。私もこの考えに賛同する考えです。靖国神社は明治から先の大戦までの多くの戦没者が神霊としてお祀りをされていることを私たち国民が歴史を知るうえで必要です。現在の靖国神社は一宗教法人ですから、国の慰霊行事に使うのは色々な問題があるので、世界で唯一の被爆国である日本が戦後70年のこの年に(平和を祈る施設)をつくる意思を表明できないものか。明治維新から70年が終戦(昭和20年)です。それから今年が70年である。なにか不思議な年回りを感じます。続く

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