お寺あれこれ 31

いつもまにか11月もあと1日で終わりでいよいよ12月です。昨日夕方孫が来ました。寺へ来ると庭で思い存分遊んでいます。私も一緒に遊んでいたら、私が庭の剪定用にもっていたはさみを見て、はさみを使ってみたいというので、二人で裏庭にあるミカンの木にミカンがなっているので、みかんを取りました。ところが葉っぱに黒いすす(すす病?)のようなかびがつき、みかんも少し黒いかびがついていたので、取ったみかんを孫と一緒に水で洗っていましたが、孫には絶好の遊び場です。バケツにみかんをなげ入れ柄のついたたわしで混ぜまわし孫のズボンは水でぬれ遊びもここでむりやり終了。洗ったみかんは本堂の阿弥陀さまと諸堂の諸仏と先祖さまに供えました。話しは変わりますが、盆以降、当山の檀信徒の方で墓を整理される方が、2件あり、またそれ以外にご自分の後の継承が出来ず、自分の元気な内に今後のことをどうするのか決めたいので、私住職に数件相談がありました。実際どれぐらいの経費がかかるのか、将来安心して供養ができないのか、要はご本人がどう考えどうしたいのか、知り得た情報の中で、本人にあった考えと方法で、「本人の供養も含めた」ことをご本人が元気な内に、墓を整理し先祖さまの供養と本人「亡くなられた後の」の供養の相談がありました。当山の場合は、墓を整理し、永代供養として合祀される場合がほとんどです。その供養としては、朝のお勤めでは阿弥陀さまと元祖さま(法然上人)と諸仏諸菩薩と総檀中各家先祖代々の精霊と共に特に境内墓地と永代供養の諸々精霊にも回向をしていますが、特に盆と両彼岸に年3回供養をしています。ところで、来月は師走で気忙しい時期ですが、12月8日はお釈迦様がお悟りを開き仏陀成道の自覚を得られた日です。仏教徒にとってはおめでたい成道会の日でありますが、また太平洋戦争の始まった日であります。私たちにとっては8月15日の終戦の日と共に忘れていけない日であり、お国の為に戦われた多くの戦死者と戦没者の精霊があり、今の生活があることを忘れてはならないと思います。この12月8日はわたしにとって、複雑な気持ちになりますが、「お釈迦様の教えに報恩感謝」の聖日であります。全世界が争いのない平和な世界を願う日です。先日の朝刊に、…「略」縄文文化は、自然との共生の中で育まれた狩猟彩集文明の最終的な形だろう。仏教にも、人間だけでなく草木や国土にも仏性があり、成仏ができるという考えがある「草木国土悉皆成仏」の思想がある。これらが人類の「光」なのではないか。それを日本は世界に謙虚に唱えていくべきだ。今のままではやがて人類は滅んでしまう。と哲学者の梅原猛さんが書かれています。なぜか目にとまった記事でした。人間の闇「人類が人類を滅ぶすこと、原爆、水爆、大量殺害、戦争」そうならないよう仏さまの光を私たち一人一人の心に生かしたいものです。

 

お寺あれこれ 30

山を思う 昨日 今日 明日
日頃楽しみにしている番組がある百名山です。若い頃山が好きで山登りをしました。百名山で登った山といっても私が登ったのは数えるぐらいです。 槍ヶ岳、穂高、立山、白馬等です。学生時代ですから、40年以上前のことで、その当時一緒に登った仲間は、どんな人生を送って今どうしているのか、今でも若い頃の元気な顔が想い出されます。今年は春に近くの愛宕山に登ったのですが、息が切れ、足は下り坂で痛め膝もガクガクになり、とても山から山への縦走などは夢かもしれません。。山頂からの展望やテントで、温かいインスタントラーメンを食べたことや友人と飲んだ酒など懐かしい想い出です。この年になると登る気はあっても体力がなく高い山や遠方の山は登れませんが、年に一度ぐらいは山の雰囲気を味わえる山行がしたいものです。‥など「懐かしい想い出」を思いながら百名山や山の番組を見ています。今日の午前中は境内の掃除が終わり、愛宕山や牛松山を見てほっと一息ついています。自分の体にあった山行であれば登れます。たとえば山の頂上を登るのではなく、緩やかな山道を散策したり山村を訪ねたり軽いトレッキングでもしてみたいものです。これなら妻も付き合ってくれるのでは、と思っています。(妻本人は登山は絶対無理だと言っています。)今日のテレビは午前中は八甲田山、夕方は北アルプス縦走、夜は白馬岳です。寺の用事で見れないときや特に興味がある山番組なら録画してCDに保存してます。昔よく言ったパブのマスターがご自分の夢であった八ヶ岳山麓でペンションンをつくられたので、いつか行って宿泊をと考えていましたが、調べたら亡くなられた後、他の方がそのペンションを引き継がれたそうです。その方から頂いた3冊の本を今も大切に残しています。色々と話をしたかったのですが、残念です。こんな事を思い境内の掃除をし、明日は、午前中は寺務の整理、午後は用事がなく、夜は近くの寺の十夜法要のお手伝いです。今週は2件の法事です。それまでに書院の掃除と中庭の手入れを剪定を、とやらねばならないことが次々でてきます。そうこうしている内に11月が過ぎ12月に入り師走です。平成28年もあと一ヶ月半です。良い明日が迎えられるよう今日一日を大切に過ごしたいものです。

お寺あれこれ 29

掃除と庭の手入れとふだん思うこと
今日は昨日に続いて、午前中は本堂前の松の剪定と午後は裏庭の落ち葉を集め掃除をする。例年この時期は相も変わらず境内の掃除と庭の手入れをします。当山では、月に3〜4件の法事と少なく私自身の用事もほとんどありませんから、掃除と庭の手入れをしながら寺の法務(仕事)をしているようです。寺では一に掃除、二に勤行、三に学問と、よく言うがわたしにはどれもできない、私は気ままな掃除だけはできるのです。還暦を過ぎ二足の草鞋も終わり、自由に念仏とお経が称えられて、その意味を調べるのも面白いが頭に入っているかと言えば、一日経つと頭から消えています。時すでに遅しです。この年になっても今日の自分よりは明日の自分のほうが、いくらかましな者になろうと仏教書を読んだり、知恩院や浄土宗の研修会に参加するが集中力がなく理解ができないことも多々ある。そんな自分自身に悩み苦しむが、毎日掃除をしていると心が無になる。無心に掃除をしている、他の事を忘れ気ままな掃除をした後の庭を見て喜びを感じるのです。しかし、秋の庭は、落ち葉が落ち三日後にはもう一度箒で掃かなければならないのです。草も生えてくる、草も引かなくてはならない。心も掃除をしている間はいいが、どうも部屋の中で、寺の事務や本を読むと眠たくなり、他のごたごた事に頭を悩ましすっきりしないときは、その場で念仏を称える、こうして一日が終わり日々が過ぎて往く、春、夏、秋、冬が過ぎ一年があっという間に過ぎ去る、寺の行事も終わり新年を迎えます。住職になり35年が過ぎそろそろ次の代の事を考えます。寺の住職には年齢制限はなく定年もないが、近いうちに隠居も考えたいものです。正直体もいつまでもつか自分自身わからない。まったく別のことですが、光忠寺の前の点滅の信号で、掃除中に、ドンーという音がしたので山門より道路を見ると、南から北に進行方向に車どうしが追突事故を起こしていました。今年に入って3回か4回目の交通事故である。緩い下り坂で(反対車線「北から南行」)は普段は点滅信号で、赤信号になっても車が止まらないので、前の停車中の車に追突する事故である。近くには幼稚園があり、若いお母さんや幼い園児がこの信号の横断歩道を渡られる、気を付けてほしいものです。事故車が走行車線をふさいでいるので、反対車線の車がしばらく通行できないので、私が車を誘導していると、初老の男性が自転車をおしながら、私の方を見て、「何しとんねん」と大きな声を出し立ち去ったのです。事故を起こした運転手に言ったのか、誰に言ったのかわからないが、心ない言葉です。そうこう思っていると事故車が横のバス駐車場(安全な場所)の方へ移動されたので、車も両方通行ができるようになったので、私も寺にもどりました。最近のニュースで、ポケモンをしながらダンプカーを運転して事故を起こし小学生が死亡し、また認知症の疑いのある高齢者の男性が小学生の登校中の列に突っ込み小学生が死亡されています。亡くなられた幼い命は二度と父母のもとへは帰って来られません。私たちが気を付け交通事故をなくさねばなりません。人間の不注意で事故が起こったなら罰する刑も重くしなければいけないものか?、また、現在自動車メーカーが競って自動運転ができる自動車を開発中ですが、自動車が事故を起こさない自動車をつくれないものか?運転免許も年齢制限が必要なのか?私たち一人一人が「交通事故ゼロ」を心がけなければ事故はなくなりません。一刻も早く交通事故がなくなる社会をつくらなければ、交通事故で亡くなられた方々がうかばれない気がします。老若男女 命は平等であるが、特に幼い子供たちの命が亡くなられることは胸が痛みます。ご冥福をお祈りします。