庭の手入れ
この時期は、庭の苔が野鳥によって、めちゃくちゃににされます。野鳥も苔の中にいる昆虫を探し食べているようです。そのため苔一面を突っつき修正ができなくなるまで細かく掘り起こし、苔を再び植えることができません。新しく苔を買わなくては自然には生える環境ではないのです。ほんとに困っています。農家の方が田や畑の野菜を動物に食べれることを聞きますが、大切にしているものを壊されたり食べらる気持ちが少しわかります。牡丹には2月はじめに寒肥をしましたが、庭の木にもバークと肥をやらなければと思っています。わたしにとって庭での作業や考えごとが楽しみの一つです。歴史ある庭や有名な方が作庭された庭は興味があり、たまに見に行きますが、やはり当山の庭を見ているのがこころが安らぎ楽しむことができます。山門の中の松と中庭の松が葉ふるい病(昆虫が運ぶ細菌)かも知れません。今年枯れるかも、と心配してします。当山には7本あり6本は私住職が剪定をして、大きな松1本だけ造園業者に剪定をお願いしています。芽摘みや古葉をとるのが大変な作業です。おそらくあと2、3年ぐらいです。庭を維持管理することは手間(時間)と経費がかかります。あとのことを考えた庭を造っておけばと後悔が残ります。しかしイングリッシュガーデンも大変な情熱と手間がかかる様子がテレビなどで放送されますが、日本以上に苦労をされるみたいですね。むしろ自分の手で造る意味では日本人以上の個性豊かなものを感じます。私たち日本人とヨーロッパの人々では美的感覚が違うのは当然ですが、美しいものを感じるのは、その庭を造る方のみえない日々の苦労の積み重ねです。いまはしだれ紅梅が咲き見頃です。楽しんでいます。
2月 2016のアーカイブ
お寺あれこれ 7
寄付(募財)の石板
先日、あるお寺の総代さんが突然当山に来られました。要件は「来られた総代さんの寺の本堂再建に当たり、本堂が完成したので寄付された檀家の名前と寄付額をどのようにされているか」教えて頂きたいということである。先ずは菩提寺の住職と相談されましたか、とお伺いすると相談は後でするそうである。(住職から私住職に相談があるのが一つの筋である。)しかしわざわざ来られているので私の考えをお話しました。約25年前に当山光忠寺が本堂諸堂の再建前に、私が地元ではなく教区内の数ヶ寺をお伺いしたある寺に、新築された本堂の横に「大きな石板に、寄付者の名前と金額が刻印されていました。」住職の考えか、総代の考えか、寺としての考えなのか、その時は私も違和感というか少し考えが違うのではないか、と思いました。というのはある意味では金額を表に出すことで、様々な問題があります。せっかく新築の本堂ができても、全体の景観からみると、その石板が目立ちすぎるのと新築された本堂と庭が台無しである。他に方法がなかったのか、募財(寄付)は布施とは意味合いが違うかもしれないが、根底にあるのは「檀家の気持ちである。」布施行である。他人に言うことでもない。寺の募財台帳に記載しとけばいい事である。当山も私住職の考えを総代に伝え「今現在は本堂にも、書院にも表には書いていない。」ということを訪ねて来られたその総代さんに伝えました。その地域や寺の考えで様々な考え方があることを分かって頂いて、その総代さんは帰っていかれました。これとは違いますが、昔から地元で、桜と紅葉の美しい神社に、いつも楽しみにお参りをさせて頂いていましたが、同じようにとてつもない大きな寄付者の名前と金額が書かれた石板が設置されました。また新しい灯篭も狭い参道に立ち並び、今まで山の借景に溶け込んだ神社の檜皮葺本殿が見えた、素晴らしい神社の景観が台無しです。残念です。私も経験がありますが、寺や神社が本堂や諸堂など大きな事業をするときは、色々な企業や会社や人間が寄ってきます。世間を知らない私住職(僧侶)などは、「赤子の手をひねる」ように簡単に騙されます。この現実の社会には身近なところに悪い人がいる事を知ったことです。貴重な経験をさせていただきました。話はそれましたが、この寄付された方々の気持ちを「十分考え」名前や金額をどうするかは寺と住職が判断することです。本筋の意味がずれ、物事が前に進むことが多々あります。知恩院の大殿(御影堂)が修復されているが、大殿が全国の浄土宗檀信徒の募財で修復されているが、総工事費の40%が檀信徒の募財で、あとの60%は文化財の補助金である。(国民の税金である)檀信徒以外の国民の税金が使われていることはあまり知られていないと思うが、私たち住職も忘れてはならないと思います。(檀家を乗せたバスや宗門学校のバスが大殿の横や前まで多く乗り入れされるため、多くの樹木が弱り無残な姿になっています。(昔から一部の住職の要望でバスや自動車が本堂前まで乗り入れられる。)建物だけ修復すれば完成ではなく是非境内も文化財に合う庭や境内を管理してほしいものです。特別風致地区ですから、木の枝を一本切るのも府の文化財の許可がいるところです。木を切れば必ず植栽をしなければなりません。この特別風致地区は建物の高さや色また自然の樹木までが規制を受ける地区です。知恩院も「大殿」だけを修復することではなく、予算を作り昔の庭や境内を復元できる専門の職員や執事が必要です。そういうことに興味を持つ人材はいないのが現状です。無理なことですね。境内の植栽とバスや自動車の乗り入れの規制を考えて頂きたいものです。今後も周囲の景観や庭も合わせた「知恩院の本堂」が修復されることを切に願いたいものです。また亀岡にも、記念樹で多くの樹木が寄付され植えられているが、あわれな枯れた桜の木が保津小橋近くにある。かわいそうなものである。根本の土壌改良や肥料をあたえれば、枝の腐食が原因なら悪いところは切り、樹木専用の防腐剤を塗れば枝は元気になり、新しい芽が吹くのです。良くなるのにもったいないことである。管理者がいないのか植えられた方なのか?花や樹木も大切にして頂きたいものです。
お寺あれこれ 6
戦争に思う
昔の写真を整理してますと私の父(老僧)のアルバムには戦争当時の軍服をきた父の写真があり、陸軍の集合写真や戦友とのひと時を楽しく過ごす写真があります。また若い父が軍刀を腰にさし母(祖母)との二人の出兵時の写真を見てますと、当時の大日本帝国憲法もと軍政権による社会全体を統制下におき学校教育や宗教や国民すべてを弾圧し戦争に突き進んでいったことがよくわかります。写真の横には、戦友に投げかける一言が書かれ当時の父の思いが伝わってきます。実際に父から戦争の話しはほとんど聞いたことがなく、祖母から聞いたことか親戚から聞いた事か、?私の記憶に残っているのは、昭和20年終戦間際に、父が都城の飛行場から自ら戦闘機(隼)に乗り敦賀の飛行場まで帰り、当山先住の義理父である西岡孝道の葬儀(4月)をして終戦をむかえた、という事だけです。父も戦争の事は私に話すことはなく、詳しい事はほとんどわかりません。戦時下における徴兵制度で、多くの少年や青年がどんな気持ちで、天皇陛下の為、日本のために戦場に行かれたのでしょうか、このアルバムには、戦友や父の写真には悲しい表情の顔はなく目は輝き、笑顔で写る戦友の写真が多くありますが、一枚の写真の横には、新聞の戦死報告の切り抜きがありました。若く希望に満ちた人生を送るはずであったのに、戦争とは不条理で残酷そのものです。第二次世界大戦では、敵味方の尊い多くの兵士や民間人が亡くなられました。仏教と戦争は相反するもので、仏教の不殺生戒は仏教徒のもっとも大切な教えであります。しかし当時は、寺の住職も、学校の先生も日本国民の男子である限り戦場に駆り出されたのです。私には父や当時の仏教会を批判することはできません。なぜなら自分も同じように「戦争反対を言わず国家の方針に従う」からです。村の心優しい和尚さんが、「従軍僧として、敵国の兵士だけではなく、民家に紛れ込んだ兵士を探すのにその家族を殺した」と言う記事を読んだ事があります。これが現実に歴史であったのです。日本が中国大陸や朝鮮半島や東南アジアに侵略戦争をしたことは、私たちが思っている以上に被害にあわれた国の皆様が強い怒りと怨みを持たれることは当然と言えます。仏教は、インドで成立した非暴力主義の教えを説いた宗教です。具体的には「生き物を殺してはならない。他人に殺させてはならない。他人が殺すのを認めてはならない。」(『スッタニパータ394』)と説かれています。また極東軍事裁判でインドとスリランカが日本への賠償請求を放棄する根拠にしたのがお釈迦さまの言葉です。その内容が「実にこの世において、怨みに報いるのに怨みを以ては、ついに怨みの消えることがない。怨みなき心によってのみ怨みは消える。これは永遠に変わらぬ真理である。」(『法句経』)この教えを心に定め、他国から言われることなく、戦争を経験したことがない私たちも過去の歴史を学び、二度と戦争を起こさせないよう私たちができることは「何か」を考えなければならないと思います。怨みに怨みで報いれば怨みは止まらない。武士の子であった法然上人が出家されたのは、「仇討ちをやめ、私の菩提を弔い、また自らも悟りを得なさい」と言う父時国公の遺言です。(お前が仇を討てば、相手もまたお前を恨みに思い、仇は代々尽きることがない。)今の世界で行われている戦争は、イスラム国やアフガニスタンでの無差別殺戮やテロを終わらせる大儀のための正しい戦争ならよいという考えならいつまでも戦争は終わることはないでしょう。現実は軍事力の均衡によって平和が保たれる事も確かです。しかし私たち仏教に関係するものは、暴力を除くあらゆる手段と対話で、平和を願い訴え続けていくしかないように思います。人種・政治・文化・経済が違う国々が互いに認め合うことができる相手を思いやる心が必要であるのではないでしょうか。パリテロ事件で、妻を亡くされた男性が、悲しみ憎しみを乗り越え、イスラム国の犯人に対して、「決して君たちに憎しみという贈り物をあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈したことになる。と憎しみを否定、最後に私(妻を亡くされた男性)と息子(2歳)は二人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。とメッセージを公表されました。これは人間としてもっとも強い心と勇気ある言葉であり、敬意と哀悼の意を表したいと思います。
お寺あれこれ 5
この時期は、参道の一角である牡丹に肥をやる時期です。以前は剪定の時に造園業者に秋か年末に庭の剪定の時に、一緒にバークをまいていましたが、それだけでは年々牡丹の木が弱ってきたので、ここ2年ほど住職が肥をやっています。以前から剪定する際には造園の職人さんと一緒に作業をしていましたから、だいたいの事は見よう見まねで庭の剪定はできるのですが、やはり美的感覚がないと木の形と庭全体のまとまりが今一つ納得がいかなく造園業者(職人さん)に頼んでおけばよかったと、後悔することがよくあります。経費面を考えると住職自身がやらないとどうにも回らないわけです。造園さんには、十五年以上お世話になってますが、近年剪定する回数を少なくすることや樹木によっては隔年にしてもらい、申し訳ない思いで庭の剪定をお願いをしています。また先代から境内にボタンを咲かせていますから、やめるわけにもいかず、なにも知識がないわたしが世話をしていますので、大きな花が咲きません。でも楽しみです。天気がよければ、今週中に肥料をやる予定です。牡丹の咲き頃は4月20日頃から1週間ぐらいです。
お寺あれこれ 4
イスラム国から難民がヨーロッパ各国へ流れ混んでします。昨年の秋頃であったと思うのですが、トルコ沿岸の海辺に小さな幼児の遺体が流れ着き、世界に衝撃を与えたニュース映像が流れました。その映像を見た時には何とも言えない悲しい気持ちになりました。また日本の幼児殺人事件のニュースは、幼児が母親と同居する男性に暴力により殺されました。「ママ苦しいの」と言って死んで逝かれたそうです。世界では戦争やテロによる無差別な殺戮で多くの一般民衆(特に老人や女性や幼い子供)が犠牲になっています。また今回の事件は、信じられない動機です。「幼児が犯人の顔を睨んだから」と言うのが、犯人が暴力をした動機です。なんの抵抗もできない三つになる幼児を暴力で殺したのです。親が子を、子が親を、・・・このような事件が後を絶ちません。現代の社会においてもこのような残酷な悲惨な事件が後を絶つことなく起こるのは、まさに平安時代となんらかわない末法社会そのものです。浄土宗の教えでは、阿弥陀さまの「本願」で誓われた「設我得佛、十方衆生・・略・・唯除五逆 誹謗正法」の御文には、すべての人々が真実の心で、お浄土に生まれたいと、例え一声でも十声でも念仏すれば、必ず人々をお浄土へ救い取るという「本願」を誓われました。しかし本願の中に「五逆と誹謗正法」は除くとあります。五逆罪とは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出す、和合僧を破る、の五つです。正法を誹謗するとは、仏教の教えを非難すること、の二つの罪を除くとあります。「極悪人でも往生できるのか」このところをどのように理解すればいいのか、私たち人間として、罪を憎んで、人を憎まずと言われますが、わが身が被害者となれば、やはり罪と同じく加害者(犯罪者)を憎み法(法律)のもっとも重い処罰を求めます。そこには犯罪と共に加害者をも絶対に許さない憎悪の気持ちが残ります。私なんかは僧侶でありながら感情が前に出てしまう愚か者であります。冷静な判断ができないものです。阿弥陀さまの本願には、「十方衆生」とすべての衆生を救うとお誓いになりましたが、その偈文の最後に唯除五逆誹謗正法が付け加えられた真意は、私たちが日常生活の中で、気づいているようで、気づかずにいる私たちに、現実重罪は犯してはいないけれど、心の中では、数々の重罪を犯している私たちに、「阿弥陀さまの大慈悲」をより深く考えるようお示しになったのではないでしょうか、自分だけの幸せ「悟り」では、戦争や犯罪がなくならないわけです。真の平和な社会が来ないのです。そのためには阿弥陀さまは、縁あるもの、縁なきもの、信ずるもの、信じないもの、善人、悪人の別なくすべての人々を平等に救うことができる「西方極楽浄土」の仏国土をつくり念仏の教えを示されたのです。極悪人も罪を償い一心に阿弥陀さまの名を称えれば、お浄土に往生できるのです。阿弥陀さまは 私たちに五逆と誹謗正法の罪がどれほどおそろしい罪であるかを知らせる事と五逆罪と誹謗正法罪をさせてはらなない「阿弥陀さまとお釈迦さま」からの強い願いであると受けさせていただきました。罪人はこの世においても罪を法で罰せられます。なんの反省も仏心も無いもの罪も償わないものはあの世においても無間地獄に堕ちるのである。、無量寿経には、極悪非道の限りを尽くす極悪人は。命尽きたときは、あの世でも三つの世界(地獄、餓鬼、畜生)に自ら堕ち、想像を絶する苦しみを受けるのである。その身を転じて姿も住む世界も替える。みなつぎつぎとそこに生まれる。互いにやりやっては、いつまでもつきることがない。罪深い悪業が尽き果てないのであれば、なんども生まれ変わり、離れる機会もなく、その苦しみから離れがたい。その痛ましさたるや筆舌に尽くしがたいのである。その苦しみは大火でわが身を焼く尽くすような苦しみである。・・・・と五悪の説明が説かれています。また今わたし(釈迦)はこの世で仏となったが、五悪、五痛、五焼に満ちたこの世界に生きる人々を導くことは、最大の困難であるが、人々を正しく導き、五悪を犯さぬようにさせ、五痛を取り除き、五焼を受けないようにさせる。さらに人々の邪な心を正して、導き、五善を修めさせ、結果この世で幸福となり、生死の世界から解脱し、極楽に往生し長生きして悟りに至るという道を歩ませるのだ。とお釈迦様が弥勒に説かれました。(無量寿経の中に)わたしの勝手な考えですが、「唯除」はここに阿弥陀さまとお釈迦さまの強い思いがあるように思います。