お寺あれこれ 33

新年明けましておめでとうございます。新年を迎えるために昨年の暮れから大掃除をし、正月の飾り付けなど準備ををして正月を迎えていますが、私の寺では 数件の檀家さんが新年のご挨拶に来られます。一般的に寺は盆に正月は神社にお参りをされているようです。正月のお勤め「修正会」は住職と寺族だけでしていますが、なにか寂しいものです。檀信徒の皆様には1月22日に法然上人の御忌会(法然さま806回の年忌)と別時会を兼ね奉修しますので、ご参加をお待ちしています。さて、新年を迎えることは、それだけ年を取ることですから死に近づことです。何か目出度いのか、なにが目出度くないのか、正月早々難しことを、わざわざ考えたくもないが、やはりこの年になると、縁起でもない、「死」を頭の片隅に感じるわけですが、人生昔は50年、60年であったが、今は80歳を超え、平均年齢が90歳近くまで延び、最期を迎えるまで心身ともに元気にいたいのですが、いままでの不摂生を思うと、わたしには、健康な身体で老後を送れるか心配です。昨年には年金制度法案が可決され、将来年金は減額されるし、また医療費負担は高くなり、介護費用も高額であり老後の生活も大変な時代です。話しはもどりますが、この正月を迎える心を、一休禅師は「元旦や冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と歌われています。私たちは元旦の朝には家族揃って、お屠蘇を祝って正月を迎えるわけですが、そのお屠蘇という言葉は、ただお酒を「おとそ」と呼んでいるのではなく、とそのトという字はほうむる、屠すという字なんです。でソという字は蘇生のソ、よみがえるという字です。ですから昨年までの古い悪いすべてのものを殺してしまって、新しく蘇ったきれいな心で、今年も過ごしたい、この日を迎えたという喜びが「とそ」という言葉であります。この屠蘇の心が、私たちの新しく迎えた今年も、無事に一年を過ごしたい、という願いで、「お屠蘇」をいただくわけです。このお屠蘇の言葉から考えると「めでたくもありめでたくもなし」という一休禅師の心がわかるのではないでしょうか、この年になって、一年を無事に過ごし新しい年を迎えることは私たちがもっとも嫌う「死」であり墓に近づくことです。「めでたくもない」ということです。またお屠蘇をいただくことは、すべての悪いものを取り除き、新しい人として生まれ変わった、心も清く美しい気持ちになった時に、「めでたい」という気持ちになります。これがわたしたちが正月に思う「お目出度い」という「こころ」です。年末の大掃除を通して、正月の飾り付けをするのは、私たちの先祖が伝えてくれた温かい気持ちであったように思います。昨年は天災地変の自然災害と凶悪な事件があり、世界では中東諸国やフランスやドイツで無差別テロがあり、多くの一般の人々が犠牲となりましたが、今年は、家族、町、地域、社会、日本、世界の人々が幸せで、平和な社会が来るよう願いたいものです。

 

お寺あれこれ 32

年末あれこれ
この時期になりますと、(13日は事始め。ところによっては8日)正月の準備に入りなにかと気忙しい月になりました。師走とは法師(僧侶)も走り回るほど忙しいという意味です。私たち住職は、人には偉そうなことを言っていますが、用事を後回しにして年末になって「あれこれ」と泡を食って走り回るという僧侶にとって実に耳の痛い話です。またこの月はお歳暮の時期ですが、今では、普段お世話になっているに方々に送り、また頂戴していますが、本来は盆と正月はともに先祖を祀る儀式の日であります。昔は私たち自身が仏壇(祖霊)にお供え物を供え、父母に贈り物をして感謝をしたそうです。現在私たちが中元や歳暮をしているのは、本来の意味や感謝を忘れ、「職場の上司や世話になっている方々」に対して、の贈答になっていますが、本来の意味は、父母や先祖さまに感謝の思いを表したものが「お中元」や「お歳暮」です。今でも地方では大晦日の夜「みたまの飯」をお仏壇に供える習慣が残っています。
餅つきやすす払いも都会ではほとんど見ることができなくなりました。餅つきは、私も子供が喜ぶと思い家族で、子供が成長(高校生)するまでやっていましたが、忙しい時期に後片付が大変なので、今ではしていません。1年の埃を落し、すす払いの代表的な行事では知恩院のお身拭い式が有名ですが、当山では、例年12月中頃に本堂諸堂の年末大掃除を檀信徒総代や婦人会の皆様と共にしています。25日のイエス・キリストの降誕祭であるクリスマスは、宗教的な意味合いは別として、戦後特に盛大なイルミネーションのイベントやケーキ店の商法合戦が行われる国民的行事の一つになりました。世間では、子供たちとともに食事をしてケーキを食べるのも家族の楽しいひと時です。これも日本人独特な「受け入れる」習合してしまう文化かもしれません。このクリスマスが終るといよいよ本堂や諸堂の正月の飾り付けです。門松と注連縄です。門松は先祖の霊が来て駐まるところ憑代として、松など葉があることが大切な条件です。注連縄は門や玄関に飾り付けをしますが、これも清浄な区画を意味し祖霊や神事が行われる地を意味します。仏教で言うところの道場結界です、実は縄は仏教からでたものです。鏡餅も注連縄と同じで霊魂が降りて宿る依代(よりしろ)です。庫裡玄関に年回表をはり、仏さまに花を供え墓や境内を掃除して晦日(30日)と大晦日は忙しいです。昔は宮中では大晦日の日に追儺(ついな)の式が行われていました。鬼やらい、豆まきをして人間の悪い所を追い払って新しい年を迎えました。この行事が現在では節分になりました。例年すべての正月の準備ができたところで、今年最後の本堂でのお勤めをして、隣寺の除夜の鐘を聞きながら、(紅白歌合戦を見て)年越しそばを頂き新年を迎えています。大晦日の除夜については、古来から諸説ありますが、その代表的な書物『日本歳時記』には先祖を祭り、家族が一年中無事にすごせたことに感謝し宴を開いたことが記されています。私は百八煩悩を除く夜であるから除夜と思っていました。また古い年を除く日、除日の夜とも言われています。いづれにしても、一年最後の夜でしめくくりとして、過ぎ去ったこの一年を反省し、なにごともなく一年間、自分を支えてくれた家族、友人知人に感謝し、阿弥陀さまの慈光をいただき、先祖様にも感謝して念佛精進して新しい年を迎えたいと思います。