新年明けましておめでとうございます。新年を迎えるために昨年の暮れから大掃除をし、正月の飾り付けなど準備ををして正月を迎えていますが、私の寺では 数件の檀家さんが新年のご挨拶に来られます。一般的に寺は盆に正月は神社にお参りをされているようです。正月のお勤め「修正会」は住職と寺族だけでしていますが、なにか寂しいものです。檀信徒の皆様には1月22日に法然上人の御忌会(法然さま806回の年忌)と別時会を兼ね奉修しますので、ご参加をお待ちしています。さて、新年を迎えることは、それだけ年を取ることですから死に近づことです。何か目出度いのか、なにが目出度くないのか、正月早々難しことを、わざわざ考えたくもないが、やはりこの年になると、縁起でもない、「死」を頭の片隅に感じるわけですが、人生昔は50年、60年であったが、今は80歳を超え、平均年齢が90歳近くまで延び、最期を迎えるまで心身ともに元気にいたいのですが、いままでの不摂生を思うと、わたしには、健康な身体で老後を送れるか心配です。昨年には年金制度法案が可決され、将来年金は減額されるし、また医療費負担は高くなり、介護費用も高額であり老後の生活も大変な時代です。話しはもどりますが、この正月を迎える心を、一休禅師は「元旦や冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と歌われています。私たちは元旦の朝には家族揃って、お屠蘇を祝って正月を迎えるわけですが、そのお屠蘇という言葉は、ただお酒を「おとそ」と呼んでいるのではなく、とそのトという字はほうむる、屠すという字なんです。でソという字は蘇生のソ、よみがえるという字です。ですから昨年までの古い悪いすべてのものを殺してしまって、新しく蘇ったきれいな心で、今年も過ごしたい、この日を迎えたという喜びが「とそ」という言葉であります。この屠蘇の心が、私たちの新しく迎えた今年も、無事に一年を過ごしたい、という願いで、「お屠蘇」をいただくわけです。このお屠蘇の言葉から考えると「めでたくもありめでたくもなし」という一休禅師の心がわかるのではないでしょうか、この年になって、一年を無事に過ごし新しい年を迎えることは私たちがもっとも嫌う「死」であり墓に近づくことです。「めでたくもない」ということです。またお屠蘇をいただくことは、すべての悪いものを取り除き、新しい人として生まれ変わった、心も清く美しい気持ちになった時に、「めでたい」という気持ちになります。これがわたしたちが正月に思う「お目出度い」という「こころ」です。年末の大掃除を通して、正月の飾り付けをするのは、私たちの先祖が伝えてくれた温かい気持ちであったように思います。昨年は天災地変の自然災害と凶悪な事件があり、世界では中東諸国やフランスやドイツで無差別テロがあり、多くの一般の人々が犠牲となりましたが、今年は、家族、町、地域、社会、日本、世界の人々が幸せで、平和な社会が来るよう願いたいものです。