教え

法然上人の教え

阿弥陀さまの本願(誓願)を信じ、口に「南無阿弥陀仏」と名号(名前・称号)を称え阿弥陀さまの光明に照らされて、人格を高め正しく明るく仲良く生活をし、命終わるときは阿弥陀さまの来迎により浄土に往き生まれる事(往生)を遂げ、西方極楽浄土で悟りを開く事を教えの根本としています。浄土宗では次の三つのことを教えの中心にしています。西方極楽浄土ー阿弥陀さまが人々を救う為に建立された世界。念仏を称えるならば、命終ののち生まれることのできる永遠の安らぎの世界。けがれや迷いのない、真、善、美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。私たちは浄土において「仏になるために菩薩行」をつみ、のちに仏になることができるのであります。阿弥陀経に西方十万億土の彼方にある国と記されています。阿弥陀佛―西方極楽浄土の救い主。浄土教において信仰の対象となる本尊仏。「無量寿経」に法蔵菩薩がすべての人々を救う為に、四十八願の願い(本願)を立て長い修行のあとに仏になり、極楽浄土を建立されました。すべての願いがかなえられている世界であります。この仏さまの名が阿弥陀佛です。阿弥陀佛自身による「すべての人々が真心をもって心から浄土に往生を願い、たとえ十遍の念仏を称えれば必ず往生を誓われました。この願いが四十八願の中の第十八願「念仏往生の願」と言われ念仏信仰の源流であります。選択本願念仏集ー浄土宗を開かれた法然上人が、六十六歳の建久9年(1198)に、前関白九条兼実公の請いによって述作したもの。浄土の教えを集大成したもので、阿弥陀佛の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えれば、どんなに罪深い愚かな者でも、必ず救われることを説いています。仏教の修行は法然上人以前は大変難しく厳しいものであったが、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば、そこに仏道修行が包含されているとし、これが仏によって選び取られた行であると示されました。浄土三部経や善導大師の観経疏などによって浄土宗の教義を一代仏教の中に位置づけています。浄土宗の根本宗典で浄土宗徒必読の書としています。題号に示された選拓とは阿弥陀佛の選び取られた行のことで、「無量寿経」に説かれる本願に誓われた念仏のことです。この念仏を勧めるに当たって、三種の選択を示しています。つまり仏教を聖道門と浄土門に分けた上、浄土門に入れと勧め、次に正と雑の二つの行の中「正行」を修すべし、さらには正行の中の助業を傍らにして、正定の業を専ら修すべしだとしています。この正定の業こそ、本願に誓われた称名念仏(阿弥陀佛の名を称える)です。この著書によって日本ではじめて凡夫救済を目的にした念仏の教えが確立されました。
                                浄土宗常識用語集・大法輪選書


仏教講座

光忠寺だより 7月

上人最後の教え  「一枚起請文①」
今回から2回に分け、法然上人のご遺言ともいえる「一枚起請文」を解説します。今回は下に示した前半部分を中心に説明しましょう。

原文
唐土わが朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

意訳
私が説く念仏は、中国や日本の多くの学者が説くような、心をこらして仏さまの姿や極楽のありさまをみようとする「観念の念仏」ではなく、また学問によりその意味を理解してとなえるものでもありません。浄土への往生のためには、「南無阿弥陀仏ととなえることで必ず往生する」、と確信して念仏すること以外、何も仔細はありません。ただし、念仏をとなえる上で、三心という心の持ち方、四修という態度が必要とされますが、それすらも念仏をとえるうちに自ずと具わるのです。

解説
臨終の二日前
「一枚起請文」は、「宗祖(元祖)法然上人御遺訓」と称されるように、上人がご臨終の二日前に書き残された、まさに上人最後の教えとなったものです。その名のとおり、一枚の紙にしたためられた、わずか380字ほどの文ですが、そこに浄土宗の教えの根本が簡潔明瞭に示されています。法然上人には浄土宗の根本聖典となる『選択本願念仏集』(選択集)という著書があります。その16章にわたる長文の『選択集』と、短い「一枚起請文』の関係を、江戸時代の高僧・義山は、「広くすれば選択集、縮むれば一枚起請也」と表現しています。つまり「一枚起請文」には、短くとも浄土宗の教えが余す所なくおさめられているということです。仮名まじりの美しい和文体で覚えやすいため、皆さんのなかには暗記されている方も多いことでしょう。冒頭に、「一枚起請文」は法然上人がご臨終の二日前に遺されたと書きましたが、それは弟子の勢観房源智の「上人の教えを滅後の形見として頂きたいのです」との願いによって、書き与えられたものでした。源智は常に上人のそばにいて、身のまわりのお世話をしながら、直接教えを受けた弟子の一人です。上人のご臨終が近いことを案じての願いだったのでしょう。源智は、その「一枚起請文」を肌身離さず持ち歩き、上人滅後より一層その志を深く胸に刻みました。そしてお念仏を広げることに励み、ご入滅された京都・東山の地に知恩院を建立して、法然上人を開山第一世として仰ぎました。源智は第二世に列せられています。
「観」から」「称「」へ
さて、法然上人が浄土宗を開くまで、「念仏」といえば、阿弥陀仏や極楽の様相を心の中に思い描く「観念の念仏」を示すものであり、念仏の心を理解するということが普通でした。しかし法然上人が主張したのは、「わたしの説く念仏は、極楽に生まれることを願い南無阿弥陀仏と一心にとなえるものは、必ず極楽浄土に生まれさせるという阿弥陀仏の本願に基づく念仏です」ということ。即ち、声に出してとなえる「称名念仏」でした。これは上人が生涯を通して説き貫いたことであり、「起請文」の「別の仔細候わず」との言葉でもわかるように、この称名念仏以外には何も付け足すことはありません。と明言されています。
自然に具わる
「三心四修と申す・・・こもり候うなり」とありますが、三つの心、四つの修めとは何かとみていきましょう。先ず三心とは、念仏者の心構えで、①至上心(嘘や偽りのない真実の心)②深心(自らのいたらなさをよくわきまえ、阿弥陀仏の救いを深く信ずる心)③回向発願心(お念仏をはじめとする善根を往生のためにふりむける心)の三つです。
次に四修とは念仏者の態度、①恭敬修(ひたすらに阿弥陀さまを敬うこと)②無余修(お念仏以外は何も混じえないこと)③無間修(お念仏を絶え間なくとなえること)④長時修(お念仏を①②③の姿勢で臨終まで続けること)の四つです。
これらはお念仏をとなえる者が必ず身につけなければならないとされているものです。しかし法然上人は、このような、全く動じないほど、固くお念仏による往生を信じるという心構えや態度でさえも、お念仏をとなえるうちに決定、つまり、自然に具わる、といわれているのです。

次回は後半部を解説します。 平成26年11月 浄土宗新聞

 

光忠寺だより 6月

善行をふり向ける「本誓偈」

弥陀本誓願 極楽之要門 定散等回向 速証無生身
意訳
阿弥陀さまの本願は、人々が阿弥陀さまに救われて極楽に往生するための肝要な門です。すべての善根功徳をふりむけて、速やかに生と死を超えた身となりましょう。

十念(十遍のお念仏を称えます)

解説

前号で「四誓偈」を読み終えました。続いて、様々な経典やその註釈書などから、おつとめの主旨にあわせた回向文を読みます。ここでは、日常勤行式で読まれる代表的な偈文「本誓偈」を説明しましょう。意訳の一節目には、「四誓偈」にも説かれていたように、「阿弥陀さまの本願(第十八願=念仏往生願)は、極楽に往生するためには肝心かなめの入り口であることが述べられています。それはとりもなおさず、お念仏を称えることが、わたしたちが阿弥陀仏の世界へ往生するための最も確実な方法だということができます。そして、次に、偈文に「定散」、意訳に「善根功徳」という少々難しい言葉が出てきます。
定と散
正式には「定散」の「定」は定善、「散」は「散善」といい、定善は、心にわずかの曇りもなく、仏さまの姿や極楽の様相を念ずること、散善は心が散漫になって集中できない者(凡夫)でも修められる、道徳的な善行をいいます。また「善根功徳」の「善根」は善をうむ根本、「功徳」も、良い結果をもたらす善行のことで、つまりこの部分は、生活全般の細かなことまで含めた全ての善い行いをふり向けて、と理解できるでしょう。そこにはもちろん、お仏壇の仏さま、ご先祖さまへの毎日のお給仕、勤行やお念仏をとなえることなどが含まれます
生死を超えて
最期に「生死を超える身」とは、もちろん、不老不死や超能力などではなく、お念仏によって全てを阿弥陀さまにおまかせすることで、生死に対する煩わしい思いが消え、命終後は極楽への往生が決まる身となる、ということです。「本誓偈」はこれまでに読んだ偈文や経典で深まった阿弥陀仏への信心をあらためて確認し、お念仏や善行により、生死を超えた身となりましょう。と説かれています。そして、「四誓偈」を読誦した思い、仏さま、ご先祖を供養した行い、それらのすべてをお念仏にのせるつもりで、今一度、十念を称えます。今回紹介した「本誓偈」は、阿弥陀仏への信心を新たにし、自身の往生を願う偈文ですが、両親、家族など特定のご先祖さまへの回向の際には「聞名得益偈」、すべての先亡の精霊を回向する際には「一切精霊偈」など、お勤めの主旨にあわせて回向文を選べばよいでしょう。回向文の詳細、読み方などは菩提寺のご住職にお伺い下さい。
※浄土宗発行の『日常勤行式』には「聞名得益偈」「一切精霊偈」は未掲載です。H26.11浄土宗新聞

光忠寺だより 5月

阿弥陀さまの誓い「四誓偈」②

前回は「四誓偈」に説かれる四つの誓願のうち、はじめの三つについて触れました。それは、①自ら立てた四十八願を成就すること、②人々をもれなく救うこと、➂阿弥陀如来の名前をあらゆる世界に届かせること、を必ず実現する、との法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)の決意表明でしたね。今月は四つ目の誓いです。

原文

離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為諸天人師 神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難 開彼智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道

功祚成満足 威曜朗十方 日月戢重暉 天光隠不現 為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼 供養一切仏 具足衆徳本 願慧悉成満

得為三界雄 如仏無礙智 通達靡不照 願我功慧力 等此最勝尊 斯願若剋果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華

意訳
私(法蔵菩薩)は欲を離れ、深く正しく思念し、清らかな智慧をもって修行に励み、この上ないさとりの道を求めて多くの人や天人を導く者となります。(世自在王如来は)勝れた不可思議な力をもって大いなる光を放ち、果てしない世界をあまねく照らし、欲望、瞋り、愚かさ(三垢冥)の闇を消し、広く人々の災いを取り除いておられます。また智慧の眼を開き、人々の煩悩の闇を滅し、地獄、餓鬼、畜生の三悪道を閉ざして悟りへ続く道に導き仏としての功徳を完全にそなえ,その威光は、あらゆる世界に輝いており、太陽と月の光を押さえ込んでしまうほどです。天の光もまた隠れてしまうでしょう。人々のために仏の教えの蔵を開き、功徳ある教えを広く一切の衆生に施し、常に人々の中でその教えを獅子が吼えるように高らかに教えを説いておられます。そして(世自在王如来は)すべての仏を供養してあらゆる功徳を供え、誓願と智慧とをすべて成就し、全世界の雄者となられたのです。世自在王如来の自在な智慧は、あまねく行きわたり、照らさないところはありません。願わくは私の功徳と智慧の力も、この最も勝れた仏と等しいものでありたいと心から願うものです。もしこの願いが成就したならば、全世界が感動し、天に舞う天人たちも美しい花をふらせて、願の成就を証明することでしょう。

解説
最も勝れた仏
前号では「誓不成正覚(私が立てた願いが成就できなければ、決して仏になりません)」という文が3回出てきたので、三つの誓願の内容をつかみやすかったのですが、今回はその文字が見当たりません。実は四つ目の誓いの内容は、上欄の経文の最後のほう、「願我功慧力 等此最勝尊(願わくば我が功慧の力 この最勝尊に等しいからん)」に集約されています。最勝尊と同じようになりたいー。「最勝尊」とは、48の願いを述べる法蔵菩薩を、その眼前で見守っていた世自在王如来のこと。つまり法蔵菩薩は、「私もあなた様(世自在王如来)のようになりたいのです!いえ、必ずなってみせます!」と、その思いを宣言する、それが四つ目の誓いです。

無限の光、永遠の光
世自在王如来のように。すなわち、完璧なまでの功徳を具えた如来(仏)となりたい、ということです。それを具体的に示したのが、冒頭の「離欲深正念」以下の経文です。ここで法蔵菩薩は、世自在王如来のお徳の素晴らしさを、まさに筆舌を尽して讃えています。その中で最も強調されているのは、世自在王如来が放つ「光」です。それは私たちが日ごろ接している物理的な光というより、闇にさまよう私たちの心を照らし出す、さとりの光、慈悲の光です。光は、優しさやぬくもり、希望といったものを連想させますね。まさに仏の光も、悩み、苦しむ衆生に優しく寄り添い、ぬくもりと希望を与えるものとして説かれています。世自在王如来の輝き放つ光を見、法蔵菩薩はそれが空間的に無限、時間的に永遠であることを理想にかかげたということができるでしょう。

阿弥陀如来となって
こうして世自在王如来のような慈悲の光を放つ仏となることを心から願った法蔵菩薩。「四誓偈」の最後、「斯願若剋果」以下は、上段の意訳に、その願いが成就されれば、天人が美しい花を降らせてそれを証明するでしょう。と結んでいますが、果たしてその誓いは成就されたのでしょうか。そのことを明らかにする教えは『無量寿経』の巻下(「四誓偈」は巻上)の冒頭に説かれています。それはお釈迦さまが弟子である阿難に「阿弥陀如来の極楽浄土に往生を願い念仏を称える者は、即座に往生を得て、そこから外れることはない」と告げておられるのですが、このことは四十八願の中で最も大切な十八番目の「念仏往生の願」をはじめ、四十八願すべてが成し遂げられ、法蔵菩薩は世自在王如来と同じように、悲しみの光をそなえた、阿弥陀如来となられていることの証しといえるのです。現在もあらゆる世界に平等に光を放ち、お念仏を称える私たちを極楽浄土へと導いてくださる阿弥陀さま、そのことを表すように阿弥陀如来ははかり知れない寿命と光明を持つ仏として「無量寿仏」「無量光仏」とも呼ばれます。さて、法蔵菩薩の48の誓いは成し遂げられ、お念仏を称えれば、誰もが必ず西方極楽浄土へ往生ができる、ということが証明されました。この阿弥陀さまの強い意志を心に刻み、ご自宅の仏壇にいらっしゃる阿弥陀さまに読誦とお念仏を捧げましょう。
H26.9  浄土宗新聞

光忠寺だより 4月

今月は、阿弥陀仏さまの誓い「四誓偈」です。

我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
意訳
私(法蔵菩薩=仏になる前の阿弥陀仏)は世にすぐれた本願(四十八願)をたてました。私は必ずその本願を成就して、さとりを得ます。もしその通りに成就できなければ、私は仏にならないと、固く誓います。

我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓普成正覚
意訳
私は未来永劫に渡って大いなる慈悲を施し、心の貧しさや苦しみにさいなまれている人々をもれなく救います。もしその通りに成就できなかれば、私は仏とならないと、固く誓います。

我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
意訳
私が仏道を完成したならば、私の名号がありとあらゆる世界にまでいきわたり、どこにおいても耳にすることができるようにします。もしその通りに成就できなければ、私は仏にならないと、固く誓います。

今回から2回に渡って誦経「四誓偈」を解読します。、誦経とは、浄土宗のよりどころとなっている『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』(3つを総称として「浄土三部経」)を読み上げることです。ただどれも長いお経なので、日常的にこれらすべての経典を読むのは容易ではありません。そこで日常勤行では、この中から特に重要な文節を抜き出して読んでいます。その一つが『無量寿経』の中にある「四誓偈」です。
四十八の誓い
仏教には阿弥陀佛や薬師如来など数多くの仏さまがいらっしゃいますが、みな修行時代(菩薩の頃)にさまざま誓いを立て、それを成就することで、仏となられています。阿弥陀仏も例外ではありません。その誓いを「誓願」もしくは単に「願」といいます。無量寿経には、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行されていた頃にたてた48の願い(=四十八願)や阿弥陀仏となって建立した極楽浄土の素晴らしさ、そこに往生するための方法、阿弥陀仏の功徳などが説かれています。中でも四十八願は本願ともいわれ、これなくしては浄土宗の教えそのものがありえなくなる最もたいせつなもので、「四誓偈」にも深く関わります。法蔵菩薩は、世自在王如来という仏さまの前で、自分も仏となってあなたのようにすべての人々を救いたい」と思いを示し、こうしたことを実現するという具体的な決意を四十八貢たてました。これが四十八願です。
例えば、私が建立する浄土には、地獄、餓鬼、畜生などの苦しみの境涯がないようにしたい、という「無三悪趣の願」にはじまり、衆生の臨終に際し、自ら迎えに参ります。という「来迎引接の願」など、どれも衆生救済を中心にすえたものです。その中で特に「南無阿弥陀仏と私の名をとなえる者は、必ず極楽浄土への往生をかなえる」という十八番目の「念仏往生の願」は、王本願(本願の中の王)とも称され、浄土宗信仰の根幹であり、四十八願の中で最も重要な願です。
これらの四十八願は、経典で「設我得佛=私が仏となったならば」の書き出しで記され、諸々の願が成就しなければ「不取正覚=仏とはならない」と結んでいます。そこに法蔵菩薩の願いの壮大さと意思の強さがうかがえます。
四誓偈の要点
「四誓偈」では、48の願いの全てを世自在王如来の前で誓ったあとに、改めてその決意を示し、世自在王如来の功徳を讃え、自らもそうありたい、としています。いわば意思表明文ともいえ、その題の通り、四つの誓いに分けることができます。今回は最初の3つを取り上げました。一つ目は、誓い終わった四十八願について、改め決意を表し、そのすべての成就を誓っています。二つ目は、四十八願に共通する基本理念ともいえるもので、未来へ続く衆生(現代に生きる私たちも含めて)をあらゆる苦しみから救う、という誓いです。三つ目は、私(阿弥陀仏)の名前をあらゆる世界に行きわたせる、というものです。これは、念仏する者がみな平等に、そして必ず救われる浄土を建立しても、その名が世に知れず、念仏する者がいなければ意味がありません。だからこそ、行きわたらせることを誓っています。
これらの三つの誓いは、それぞれに、「誓不成正覚=誓って正覚を成ぜず」と結んでいます。つまり、この願いが成就しなければ私は仏にはならない。という強い決意が誓われていることがうかがえる一節です。そしていずれの願いも成就し、すでに阿弥陀仏となられているのです。ー来月号では、四つ目の誓いを解説します。 浄土宗新聞 H26.8

光忠寺だより 3月

今月は、出会いに感謝し経典を開く「開経偈」です。

開経偈               読み下し文
無常甚深微妙法 百千万劫難遭遇   無常甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し
我今見聞得受持 願解如来真実義   我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
現代語訳
この上もない奥深い仏さまの教えに出会うことは、永遠の時を経てもありえないかもしれないほど難しいことですが、私は今幸いにしてその教えを聞き、受けとらせていただきました。仏さまのさとりの真実と意義を理解し、体得させていただきたいと心から願います。
解説
諸々の仏さまをお招きして、これまでの罪を告白し、阿弥陀さまにすべてをおまかせする準備が整いました。これまでを「序文」といい、これ以降はおつとめの本論にあたる「正宗分」となります。そしてその経文をお読みするまえにとなえるのがこの「開経偈」です。
意訳のように、なかなか出会うことができない仏さまの教えに出遇えた感動を述べ、その教えが自らの身に染み込みますように、という願いつつおとなえします。略、人間として生まれること、そしてその上で、仏教の教えに出会うことの難しさを、法然上人は「天から糸を垂らし、たまたま海底におちていた針の穴にその糸が通る」ほどのことと、譬えています。阿弥陀さまのお念仏の教えは、お釈迦さまから連綿と伝わり、2500年の時を経ていまに伝わっています。教えは変わることなく私たちを照らし続けてくれていますが、これに出会うことは実に大変なことです。
まず自分自身が人として今この時に存在していることさえ奇跡ともいえます。その中で出会うチャンスは、また多くの縁の積み重ねがなければ生まれません。本当に小さなご縁の繰り返しなのです。いくつものわずかな可能性がつながりあってこそ、今の自分がここにいて、仏さまの教えに出遇えたのです。だからこそ悦ばしく、そのことをかみしめれば、一言漏らさず理解できますように、という思いが自然に起こってくるのではないでしょうか。偈文に「百千万劫にも遭い難し」とありますが、この「劫」とは計り知れないほど長い時間の単位を表します。よく「千載一隅のチャンスといいます。しかも出遇えるのは人間として生まれ、様々なご縁が重なってこそ。このチャンスをどう活かすか。その答えはご自身で見つけて下さい。  浄土宗新聞H26.7

 

光忠寺だより 2月

今月は罪を告白、悔い改める「懺悔偈・十念」です。

懺悔偈(さんげげ)

我昔所造諸悪業 我れ昔より造る所の諸々の悪業は、
皆由無始貪瞋痴 皆無始の貪瞋痴に由る
従身語意之所生 身語意により生ずる所なり
一切我今皆懺悔 一切我れ今皆懺悔したてまつる。
意訳
わたしが造り続けてきたさまざまな悪業は、すべて、はるか過去からの貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の煩悩によります。これはすべて私の行い、ことば、思いから生じたものです。私は今、そのすべてを懺悔します。

十念
南無阿弥陀仏 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●(十遍)
意訳
「阿弥陀さまにおまかせします」という思いでおとなえします。このなか、9回目のみ「なむあみだぶつ」ととなえ、それ以外は「なむあみだぶ」と発声します。

解説
「四奉請」(三奉請)」でお迎えした仏さまに自らの悪業を告白し、悔い改める気持ちを表明する偈文です。では私たちが犯している悪業とは何なのでしょう。ここでいう悪業とは、偈文にある、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の煩悩から起こす罪をいいます。私たちは日常生活の中で、さまざまな欲求を起こしたり、腹を立てたりしています。また、そのつもりがなくとも、ふいに相手を傷つけることがあります。、場合によっては、その人の人生にさえ影響を与えかねないこともあるでしょう。これらが複雑に絡み合い、数限りない悪業を生んでいくのです。
どんなに誠実に生きていているつもりでも、こころのどこかで煩悩を抱え、気づかないうちに悪業を犯していることもあるのです。逆に返せば、だからこそ凡夫なのです。一般的には「懺悔」を《ざんげ》と読みますが、仏教では、濁らずに《さんげ》と読みます。罪を告白し、滅罪を祈るという点では、キリスト教の神に祈ることと類似する部分もありますが、の浄土宗の日常勤行では「懺悔偈」に続く「十念」が滅罪の方法にあたるといえるでしょう。法然上人が帰依した善導大師は、その著書『般舟讃』の中で、「念々の称名は常に懺悔なり」といっています。また、『観無量寿経』も経文の中にも、お念仏は・・・中略・・・八十億劫生死の罪を除く」とはっきり示されています。
罪が除かれ、往生がかなうお念仏の教えは誠にありがたいことですが、だから何をしても構わない、ということにはなりません。法然上人も、煩悩があればあるがままにお念仏を称すべきことを説いていますが、一方で、ご法語の「一紙小消息」の中で、「どんなに罪の重い者でも救ってくださる大慈悲を信じるからこそ、どんな些細な罪をも犯さないように心掛けなさい」とおっしゃっています。その言葉を受け取り、ゆっくりお念仏をお称え下さい。阿弥陀さまにすべてをおまかせする思いで・・・浄土宗新聞 H26.6

 

光忠寺だより 1月

先月に続き、お勤めの経文を読み下し意味を考えてみたいと思います。香を焚いて身も心も清め、三宝に帰依したところで、今月は仏さまを迎える「四奉請・三奉請」です。

四奉請
奉請十方如来入道場散華楽  請じ奉る十方如来、道場に入りたまえ(散華楽・華を散らしますので)
奉請釈迦如来入道場散華楽  請じ奉る釈迦如来、道場に入りたまえ(散華楽・華を散らしますので)
奉請弥陀如来入道場散華楽  請じあ奉る弥陀如来、道場に入りたまえ(散華楽、華を散らしますので)
奉請観音勢至諸大菩薩入道場散華楽 請じ奉る観音勢至道場に入りたまえ(散華楽、華を散らしますので)
現代語訳
お願いいたします。あらゆる世界の仏さま、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。お釈迦さま、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。阿弥陀さま、どうぞこの場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。観音・勢至両菩薩さまをはじめとする菩薩方、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。

三奉請
奉請弥陀世尊入道場  請じ奉る世尊弥陀如来、道場に入りたまえ。
奉請釈迦如来入道場  請じ奉る釈迦如来、道場に入りたまえ。
奉請十方如来入道場  請じ奉る十方如来、道場に入りたまえ。
現代語訳
お願いいたします。最も尊い阿弥陀さま、どうぞこの修行の場においでください。
お願いいたします。お釈迦さま、どうぞこの道場においでください。
お願いいたします。あらゆる世界の仏さま、どうぞこの道場においでください。

解説
香を焚いて身も心も清め、三宝へ帰依したところで、仏さまにいらしていただきます。「四請偈」の偈文では、もろもろの如来(仏)、阿弥陀、釈迦の両如来、阿弥陀、観音・勢至などもろもろの菩薩の順にお迎え(請い奉る=奉請)しています。各偈文の最後にある「散華楽」とは、蓮華の花弁を模した散華をまき、お迎えする場所を清らかにするという意味があります。菩提寺での法要などで目にする機会があるかと思います。ご家庭では難しい作法ですが、日頃から仏壇をきれいにしておくことや、真摯におつとめをすることを心がけましょう。ところで、一般に「道場」といえば、武芸などを学ぶ場所ですが、仏教でも修行の場や教えを学ぶ場所、寺院の本堂などを道場といいます。道を究めることには相違ありませんが仏教的には「仏道を修する場」ということになります。では、自宅で日常勤行を勤めた場合、それぞれの家庭が道場に成り得るでしょうか。法然上人は「念仏の声するところみな私の遺跡である」おっしゃっています。もちろんあなたのご自宅も仏道(勤行)を修める以上、立派な道場です。いえもっと言えば、仏教は自己の苦悩を解決するためのものですから、三宝に帰依したあなたの生活している場、行くところすべて「道場」であると心得ること、むしろそれが仏さまの教えといえるでしょう。どうぞ一心におとなえしつつ仏・菩薩をお迎えください。
浄土宗新聞 H26.5

光忠寺だより 12月

先月に続き、お勤めの経文を読み下して意味を考えてみたいと思います。

三宝礼(さんぽうらい)

一心敬礼十方法界常住仏  一心に敬って十方法界常住の仏を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまを心から敬い、礼拝いたします。
一心敬礼十方法界常住法  一心に敬って十方法界常住の法を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまの教えを心から敬い、礼拝いたします。
一心敬礼十方法界常住僧  一心に敬って十方法界常住の僧を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまを信じ、仏道修行に方々を心から敬い、礼拝いたします。

解説
「三宝礼」の「三宝」とは、読んで字の如く三つの宝。各偈文末の「仏、法、僧」を表しています。聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」にも「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり」と記されており、この三宝を敬い礼拝することは仏教徒としての基本、スタートなのです。
「仏」は、覚ったもの=「仏陀」を指します。仏陀と云えばお釈迦さまを思い浮かべるかもしれませんが、ここでいう仏は遍く世界におられるすべての仏を指します。仏道修行の最終目標はさとりを開くこと。この世で厳しい修行を積み、さとりを開くという道もありますが、浄土教ではひごろのお念仏によって、臨終に際し阿弥陀さまのお迎えをいただき、極楽浄土で修行の後、私たち凡夫でも仏になることができるのです。
「法」は、仏が説かれたすべての教えです。仏教では『八万四千の法門」といわれるほど多くの教えが説かれています。その全てを敬う気持ちを礼拝して示すことが大切なのです。「僧」は、僧伽を略したことばで、一般的には和合衆といい、仏教の教えを守り修行する人々の集まりを指します。広くは「お坊さん」だけを指すものではなく、篤く仏教を敬う一般の方も含まれます。寺院は、僧侶、檀信徒、地域の方々などそれぞれの力が合わさることで成り立っています。まさに和合衆といえるでしょう。そして守り、伝えられてきたからこそ、今わたしたちはお念仏のみ教えにふれることができるのです。長い歴史を経て綿々と伝えてきた大切な宝を、私たちはしっかりと受け止め、後世に伝えていかなければなりません。さて、偈文は「一心敬礼、十方法界常住」が繰り返されます。意味的には「十方」と「法界「」を読み解けばさほど難しいものではありません。「十方」は東西南北の四方と、その中間の東北、東南、西南、西北と上下を指し、「法界」はこの世に存在するものを表します。つまりこの世で遍くいきわたる仏法僧を一心に敬い、礼拝しますということです。常に移ろいゆく無常にあって、この仏法僧は不変です。あらゆるところに仏がおられ、教えをお示し下さいます。「香偈」によって、身も心も清めた後に、私たちに仏教を伝えて下さった「仏法僧」に敬いの気持をもって礼拝し、感謝の気持ちを示す、これが三宝礼なのです。※「三宝礼」での礼拝は、各偈文の「常住〇」のところで行います。このとき、両膝と両肘、そして額を床に付け両手のひらを上に向けて耳の位置まであげます。身体に無理のない程度に行って下さい。 浄土宗新聞 H26.4

 

光忠寺だより 11月

お経をそのまま読んでも何が書いているのか、わからないのが現状ではないでしょうか、たまには普段のお勤めの「お経」の意味を考えながら和文で読んで見てはいかがでしょうか。

香偈「こうげ」
願我身浄如香炉 願我心如智慧火  願わくは我が身浄きこと香炉の如く。願わくは我が心智慧の如く。

念念焚焼戒定香 供養十方三世仏  念念に戒定の香を焚きまつりて 十方三世の仏に供養してたてまつる。

現代語訳
願わくは私の身が香炉のように清らかであり、私の心が智慧の火のようでありますように。日々、戒律を守り、心を平静に保つための香を焚き、あらゆる仏さまを供養します。

解説
今回はお勤めの初めの偈文「香偈」です。この偈文の肝要は意訳にあるように自らの身心が香炉(から立ちのぼる煙)のごとく、また智慧の火のごとく清らかであるように、と願うことです。「智慧の火」とは、私たちの心の中に巣食っていて悩みや苦しみのもととなる。煩悩を焼き尽くしてくれる、真理の火を指しています。仕事、家事などの日々の生活に追われ、なかなか静かに心を落ち着けることができないのが、私たち現代人の性ではないでしゅうか。仏教ではしばしばこの心の様子を「水」に例えて説明します。法然上人も次のような歌を詠まれてその心理を表しています。「人の心に、似たりけり 濁りすむこと 定めなければ」このように水は、静かに落ち着きを保てば清浄に澄みわたり、ひとたび風が吹き乱れれば濁りきってしまうものです。私たちの心もまた同じです。
次に「戒」と「定」の字が並びます。「戒」とは、修行者が守るべき仏教の規律「戒律」を保つことで、「定」とは、静かに心を落ち着かせる禅定に励むことです。この「戒」と「定」の修行を経て真理の眼「智慧」へと向かうことから「戒定慧」を三学といい、昔から仏道修行の根幹とされてきました。しかし煩悩に引きずられ、どうしても、心の水が濁ってしまうのが私たち凡夫には簡単にできがたいもの。
法然上人は厳しい修行に身をおかれましたが、三学に堪えがたい自己を深く反省し「わが身は戒行において一戒をも持たず、禅定においては一つもこれを得ず」と仰せになられました。そして、一切の人々にお慈悲を注がれるみ仏が、このような凡夫の救われる道を支度しておかれないはずがない、と求道され、ついに、心が乱れた凡夫のままで救われるお念仏に出会われたのです。
お念仏は、三学によらない教えですが、阿弥陀さまにおすがりする中で、善の心が生じ、おのずと心の水は澄んでいくのです。ですから戒定の「香」を焚くということは、お念仏のなかで自然に行じているのです。身心を清らかにし、仏さまを供養する準備を整える「香偈」。法然上人の想いをしっかりといただき、お称えしたいものです。 浄土宗新聞 H26.3

 

光忠寺だより 10月

葬儀式(そうぎしき)
死者を弔うための一連の儀式。遺体の処理、死の社会的確認、伝統的地域共同体の地縁血縁者による喪家はじめ地域社会全体の精神的物質的な危機の克服、先祖への仲間入り、家業繁栄・子孫安寧などの守護祈願、遺族・親族の悲嘆の軽減、関係者の仏道への導入、などの意味・目的がある。
浄土宗においての葬儀式は、阿弥陀仏の来迎引摂を仰ぎ、故人に剃度・引導を行って仏弟子とし、念仏を称えて極楽往生を念じ勧める儀式である。代って、故人の極楽往生を遂げせしめることが第一義であり、娑婆での生との別離と極楽への再生をはたすものである。「津戸の三郎へつかわす御返事」には「疾く極楽へ参りて、悟りを開きて生死に濁りて・・・一切衆生を遍く利益せん」(昭法全・五〇六)と、極楽への往生は当人だけのものではなく、すべての人々の救いの為であると心得べきであると説いている。
つまり仏教信者・念仏者にとっての往生の目的は、日々の生活のなかで、念仏を称え、臨終に阿弥陀仏の来迎を得て極楽に往生し、菩薩として有縁無縁のすべての苦の衆生を救う還相回向に努め、最終的には悟りを得て成仏を果すことである。肉体的には終焉を迎えても、念仏者の真の目的を果たすためにも往生し、新生の菩薩として生まれ変わる意味をもつものである。・・・(略)
葬儀に対する人々の意識と執行の実体は、1990年以降大きく変化した。社葬などの大きな葬儀は縮小し、自宅葬からセレモニーホールなどで行うこと(斎場葬)が一般化し、僧侶の出仕者数の減少など、葬儀の縮小と簡略化が進行、家族など近親者以外の儀礼的・社交的な弔問客の参列を伴わない家族葬と呼ばれる形態も増えている。近年では宗教的儀礼を伴わない「お別れの会」が行われるようになっている。俗にいう直葬と称される、火葬のみを行う葬送は、宗教者による儀礼を伴わない、たんなる遺体処理の葬法とも提えられる。一方で、平成23(2011)年に起きた東日本大震災を境に、葬儀の重要性と必要性を再認識する傾向があらためて高まり、その内実に関心がむけられるようになった。
「浄土宗大辞典」

 

 

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