教え

法然上人の教え

阿弥陀さまの本願(誓願)を信じ、口に「南無阿弥陀仏」と名号(名前・称号)を称え阿弥陀さまの光明に照らされて、人格を高め正しく明るく仲良く生活をし、命終わるときは阿弥陀さまの来迎により浄土に往き生まれる事(往生)を遂げ、西方極楽浄土で悟りを開く事を教えの根本としています。浄土宗では次の三つのことを教えの中心にしています。西方極楽浄土ー阿弥陀さまが人々を救う為に建立された世界。念仏を称えるならば、命終ののち生まれることのできる永遠の安らぎの世界。けがれや迷いのない、真、善、美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。私たちは浄土において「仏になるために菩薩行」をつみ、のちに仏になることができるのであります。阿弥陀経に西方十万億土の彼方にある国と記されています。阿弥陀佛―西方極楽浄土の救い主。浄土教において信仰の対象となる本尊仏。「無量寿経」に法蔵菩薩がすべての人々を救う為に、四十八願の願い(本願)を立て長い修行のあとに仏になり、極楽浄土を建立されました。すべての願いがかなえられている世界であります。この仏さまの名が阿弥陀佛です。阿弥陀佛自身による「すべての人々が真心をもって心から浄土に往生を願い、たとえ十遍の念仏を称えれば必ず往生を誓われました。この願いが四十八願の中の第十八願「念仏往生の願」と言われ念仏信仰の源流であります。選択本願念仏集ー浄土宗を開かれた法然上人が、六十六歳の建久9年(1198)に、前関白九条兼実公の請いによって述作したもの。浄土の教えを集大成したもので、阿弥陀佛の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えれば、どんなに罪深い愚かな者でも、必ず救われることを説いています。仏教の修行は法然上人以前は大変難しく厳しいものであったが、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば、そこに仏道修行が包含されているとし、これが仏によって選び取られた行であると示されました。浄土三部経や善導大師の観経疏などによって浄土宗の教義を一代仏教の中に位置づけています。浄土宗の根本宗典で浄土宗徒必読の書としています。題号に示された選拓とは阿弥陀佛の選び取られた行のことで、「無量寿経」に説かれる本願に誓われた念仏のことです。この念仏を勧めるに当たって、三種の選択を示しています。つまり仏教を聖道門と浄土門に分けた上、浄土門に入れと勧め、次に正と雑の二つの行の中「正行」を修すべし、さらには正行の中の助業を傍らにして、正定の業を専ら修すべしだとしています。この正定の業こそ、本願に誓われた称名念仏(阿弥陀佛の名を称える)です。この著書によって日本ではじめて凡夫救済を目的にした念仏の教えが確立されました。
                                浄土宗常識用語集・大法輪選書


仏教講座

光忠寺だより 四月

今月は、阿弥陀仏さまの誓い「四誓偈」です。

我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
意訳
私(法蔵菩薩=仏になる前の阿弥陀仏)は世にすぐれた本願(四十八願)をたてました。私は必ずその本願を成就して、さとりを得ます。もしその通りに成就できなければ、私は仏にならないと、固く誓います。

我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓普成正覚
意訳
私は未来永劫に渡って大いなる慈悲を施し、心の貧しさや苦しみにさいなまれている人々をもれなく救います。もしその通りに成就できなかれば、私は仏とならないと、固く誓います。

我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
意訳
私が仏道を完成したならば、私の名号がありとあらゆる世界にまでいきわたり、どこにおいても耳にすることができるようにします。もしその通りに成就できなければ、私は仏にならないと、固く誓います。

今回から2回に渡って誦経「四誓偈」を解読します。、誦経とは、浄土宗のよりどころとなっている『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』(3つを総称として「浄土三部経」)を読み上げることです。ただどれも長いお経なので、日常的にこれらすべての経典を読むのは容易ではありません。そこで日常勤行では、この中から特に重要な文節を抜き出して読んでいます。その一つが『無量寿経』の中にある「四誓偈」です。
四十八の誓い
仏教には阿弥陀佛や薬師如来など数多くの仏さまがいらっしゃいますが、みな修行時代(菩薩の頃)にさまざま誓いを立て、それを成就することで、仏となられています。阿弥陀仏も例外ではありません。その誓いを「誓願」もしくは単に「願」といいます。無量寿経には、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行されていた頃にたてた48の願い(=四十八願)や阿弥陀仏となって建立した極楽浄土の素晴らしさ、そこに往生するための方法、阿弥陀仏の功徳などが説かれています。中でも四十八願は本願ともいわれ、これなくしては浄土宗の教えそのものがありえなくなる最もたいせつなもので、「四誓偈」にも深く関わります。法蔵菩薩は、世自在王如来という仏さまの前で、自分も仏となってあなたのようにすべての人々を救いたい」と思いを示し、こうしたことを実現するという具体的な決意を四十八貢たてました。これが四十八願です。
例えば、私が建立する浄土には、地獄、餓鬼、畜生などの苦しみの境涯がないようにしたい、という「無三悪趣の願」にはじまり、衆生の臨終に際し、自ら迎えに参ります。という「来迎引接の願」など、どれも衆生救済を中心にすえたものです。その中で特に「南無阿弥陀仏と私の名をとなえる者は、必ず極楽浄土への往生をかなえる」という十八番目の「念仏往生の願」は、王本願(本願の中の王)とも称され、浄土宗信仰の根幹であり、四十八願の中で最も重要な願です。
これらの四十八願は、経典で「設我得佛=私が仏となったならば」の書き出しで記され、諸々の願が成就しなければ「不取正覚=仏とはならない」と結んでいます。そこに法蔵菩薩の願いの壮大さと意思の強さがうかがえます。
四誓偈の要点
「四誓偈」では、48の願いの全てを世自在王如来の前で誓ったあとに、改めてその決意を示し、世自在王如来の功徳を讃え、自らもそうありたい、としています。いわば意思表明文ともいえ、その題の通り、四つの誓いに分けることができます。今回は最初の3つを取り上げました。一つ目は、誓い終わった四十八願について、改め決意を表し、そのすべての成就を誓っています。二つ目は、四十八願に共通する基本理念ともいえるもので、未来へ続く衆生(現代に生きる私たちも含めて)をあらゆる苦しみから救う、という誓いです。三つ目は、私(阿弥陀仏)の名前をあらゆる世界に行きわたせる、というものです。これは、念仏する者がみな平等に、そして必ず救われる浄土を建立しても、その名が世に知れず、念仏する者がいなければ意味がありません。だからこそ、行きわたらせることを誓っています。
これらの三つの誓いは、それぞれに、「誓不成正覚=誓って正覚を成ぜず」と結んでいます。つまり、この願いが成就しなければ私は仏にはならない。という強い決意が誓われていることがうかがえる一節です。そしていずれの願いも成就し、すでに阿弥陀仏となられているのです。ー来月号では、四つ目の誓いを解説します。 浄土宗新聞 H26.8

光忠寺だより 3月

今月は、出会いに感謝し経典を開く「開経偈」です。

開経偈               読み下し文
無常甚深微妙法 百千万劫難遭遇   無常甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し
我今見聞得受持 願解如来真実義   我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
現代語訳
この上もない奥深い仏さまの教えに出会うことは、永遠の時を経てもありえないかもしれないほど難しいことですが、私は今幸いにしてその教えを聞き、受けとらせていただきました。仏さまのさとりの真実と意義を理解し、体得させていただきたいと心から願います。
解説
諸々の仏さまをお招きして、これまでの罪を告白し、阿弥陀さまにすべてをおまかせする準備が整いました。これまでを「序文」といい、これ以降はおつとめの本論にあたる「正宗分」となります。そしてその経文をお読みするまえにとなえるのがこの「開経偈」です。
意訳のように、なかなか出会うことができない仏さまの教えに出遇えた感動を述べ、その教えが自らの身に染み込みますように、という願いつつおとなえします。略、人間として生まれること、そしてその上で、仏教の教えに出会うことの難しさを、法然上人は「天から糸を垂らし、たまたま海底におちていた針の穴にその糸が通る」ほどのことと、譬えています。阿弥陀さまのお念仏の教えは、お釈迦さまから連綿と伝わり、2500年の時を経ていまに伝わっています。教えは変わることなく私たちを照らし続けてくれていますが、これに出会うことは実に大変なことです。
まず自分自身が人として今この時に存在していることさえ奇跡ともいえます。その中で出会うチャンスは、また多くの縁の積み重ねがなければ生まれません。本当に小さなご縁の繰り返しなのです。いくつものわずかな可能性がつながりあってこそ、今の自分がここにいて、仏さまの教えに出遇えたのです。だからこそ悦ばしく、そのことをかみしめれば、一言漏らさず理解できますように、という思いが自然に起こってくるのではないでしょうか。偈文に「百千万劫にも遭い難し」とありますが、この「劫」とは計り知れないほど長い時間の単位を表します。よく「千載一隅のチャンスといいます。しかも出遇えるのは人間として生まれ、様々なご縁が重なってこそ。このチャンスをどう活かすか。その答えはご自身で見つけて下さい。  浄土宗新聞H26.7

 

光忠寺だより 2月

今月は罪を告白、悔い改める「懺悔偈・十念」です。

懺悔偈(さんげげ)

我昔所造諸悪業 我れ昔より造る所の諸々の悪業は、
皆由無始貪瞋痴 皆無始の貪瞋痴に由る
従身語意之所生 身語意により生ずる所なり
一切我今皆懺悔 一切我れ今皆懺悔したてまつる。
意訳
わたしが造り続けてきたさまざまな悪業は、すべて、はるか過去からの貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の煩悩によります。これはすべて私の行い、ことば、思いから生じたものです。私は今、そのすべてを懺悔します。

十念
南無阿弥陀仏 ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●(十遍)
意訳
「阿弥陀さまにおまかせします」という思いでおとなえします。このなか、9回目のみ「なむあみだぶつ」ととなえ、それ以外は「なむあみだぶ」と発声します。

解説
「四奉請」(三奉請)」でお迎えした仏さまに自らの悪業を告白し、悔い改める気持ちを表明する偈文です。では私たちが犯している悪業とは何なのでしょう。ここでいう悪業とは、偈文にある、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の煩悩から起こす罪をいいます。私たちは日常生活の中で、さまざまな欲求を起こしたり、腹を立てたりしています。また、そのつもりがなくとも、ふいに相手を傷つけることがあります。、場合によっては、その人の人生にさえ影響を与えかねないこともあるでしょう。これらが複雑に絡み合い、数限りない悪業を生んでいくのです。
どんなに誠実に生きていているつもりでも、こころのどこかで煩悩を抱え、気づかないうちに悪業を犯していることもあるのです。逆に返せば、だからこそ凡夫なのです。一般的には「懺悔」を《ざんげ》と読みますが、仏教では、濁らずに《さんげ》と読みます。罪を告白し、滅罪を祈るという点では、キリスト教の神に祈ることと類似する部分もありますが、の浄土宗の日常勤行では「懺悔偈」に続く「十念」が滅罪の方法にあたるといえるでしょう。法然上人が帰依した善導大師は、その著書『般舟讃』の中で、「念々の称名は常に懺悔なり」といっています。また、『観無量寿経』も経文の中にも、お念仏は・・・中略・・・八十億劫生死の罪を除く」とはっきり示されています。
罪が除かれ、往生がかなうお念仏の教えは誠にありがたいことですが、だから何をしても構わない、ということにはなりません。法然上人も、煩悩があればあるがままにお念仏を称すべきことを説いていますが、一方で、ご法語の「一紙小消息」の中で、「どんなに罪の重い者でも救ってくださる大慈悲を信じるからこそ、どんな些細な罪をも犯さないように心掛けなさい」とおっしゃっています。その言葉を受け取り、ゆっくりお念仏をお称え下さい。阿弥陀さまにすべてをおまかせする思いで・・・浄土宗新聞 H26.6

 

光忠寺だより 1月

先月に続き、お勤めの経文を読み下し意味を考えてみたいと思います。香を焚いて身も心も清め、三宝に帰依したところで、今月は仏さまを迎える「四奉請・三奉請」です。

四奉請
奉請十方如来入道場散華楽  請じ奉る十方如来、道場に入りたまえ(散華楽・華を散らしますので)
奉請釈迦如来入道場散華楽  請じ奉る釈迦如来、道場に入りたまえ(散華楽・華を散らしますので)
奉請弥陀如来入道場散華楽  請じあ奉る弥陀如来、道場に入りたまえ(散華楽、華を散らしますので)
奉請観音勢至諸大菩薩入道場散華楽 請じ奉る観音勢至道場に入りたまえ(散華楽、華を散らしますので)
現代語訳
お願いいたします。あらゆる世界の仏さま、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。お釈迦さま、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。阿弥陀さま、どうぞこの場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。
お願いいたします。観音・勢至両菩薩さまをはじめとする菩薩方、どうぞこの修行の場においでください。蓮の華びらをまいてお迎えいたします。

三奉請
奉請弥陀世尊入道場  請じ奉る世尊弥陀如来、道場に入りたまえ。
奉請釈迦如来入道場  請じ奉る釈迦如来、道場に入りたまえ。
奉請十方如来入道場  請じ奉る十方如来、道場に入りたまえ。
現代語訳
お願いいたします。最も尊い阿弥陀さま、どうぞこの修行の場においでください。
お願いいたします。お釈迦さま、どうぞこの道場においでください。
お願いいたします。あらゆる世界の仏さま、どうぞこの道場においでください。

解説
香を焚いて身も心も清め、三宝へ帰依したところで、仏さまにいらしていただきます。「四請偈」の偈文では、もろもろの如来(仏)、阿弥陀、釈迦の両如来、阿弥陀、観音・勢至などもろもろの菩薩の順にお迎え(請い奉る=奉請)しています。各偈文の最後にある「散華楽」とは、蓮華の花弁を模した散華をまき、お迎えする場所を清らかにするという意味があります。菩提寺での法要などで目にする機会があるかと思います。ご家庭では難しい作法ですが、日頃から仏壇をきれいにしておくことや、真摯におつとめをすることを心がけましょう。ところで、一般に「道場」といえば、武芸などを学ぶ場所ですが、仏教でも修行の場や教えを学ぶ場所、寺院の本堂などを道場といいます。道を究めることには相違ありませんが仏教的には「仏道を修する場」ということになります。では、自宅で日常勤行を勤めた場合、それぞれの家庭が道場に成り得るでしょうか。法然上人は「念仏の声するところみな私の遺跡である」おっしゃっています。もちろんあなたのご自宅も仏道(勤行)を修める以上、立派な道場です。いえもっと言えば、仏教は自己の苦悩を解決するためのものですから、三宝に帰依したあなたの生活している場、行くところすべて「道場」であると心得ること、むしろそれが仏さまの教えといえるでしょう。どうぞ一心におとなえしつつ仏・菩薩をお迎えください。
浄土宗新聞 H26.5

光忠寺だより 12月

先月に続き、お勤めの経文を読み下して意味を考えてみたいと思います。

三宝礼(さんぽうらい)

一心敬礼十方法界常住仏  一心に敬って十方法界常住の仏を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまを心から敬い、礼拝いたします。
一心敬礼十方法界常住法  一心に敬って十方法界常住の法を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまの教えを心から敬い、礼拝いたします。
一心敬礼十方法界常住僧  一心に敬って十方法界常住の僧を礼したてまつる。
いついかなるところにもつねにあります仏さまを信じ、仏道修行に方々を心から敬い、礼拝いたします。

解説
「三宝礼」の「三宝」とは、読んで字の如く三つの宝。各偈文末の「仏、法、僧」を表しています。聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」にも「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり」と記されており、この三宝を敬い礼拝することは仏教徒としての基本、スタートなのです。
「仏」は、覚ったもの=「仏陀」を指します。仏陀と云えばお釈迦さまを思い浮かべるかもしれませんが、ここでいう仏は遍く世界におられるすべての仏を指します。仏道修行の最終目標はさとりを開くこと。この世で厳しい修行を積み、さとりを開くという道もありますが、浄土教ではひごろのお念仏によって、臨終に際し阿弥陀さまのお迎えをいただき、極楽浄土で修行の後、私たち凡夫でも仏になることができるのです。
「法」は、仏が説かれたすべての教えです。仏教では『八万四千の法門」といわれるほど多くの教えが説かれています。その全てを敬う気持ちを礼拝して示すことが大切なのです。「僧」は、僧伽を略したことばで、一般的には和合衆といい、仏教の教えを守り修行する人々の集まりを指します。広くは「お坊さん」だけを指すものではなく、篤く仏教を敬う一般の方も含まれます。寺院は、僧侶、檀信徒、地域の方々などそれぞれの力が合わさることで成り立っています。まさに和合衆といえるでしょう。そして守り、伝えられてきたからこそ、今わたしたちはお念仏のみ教えにふれることができるのです。長い歴史を経て綿々と伝えてきた大切な宝を、私たちはしっかりと受け止め、後世に伝えていかなければなりません。さて、偈文は「一心敬礼、十方法界常住」が繰り返されます。意味的には「十方」と「法界「」を読み解けばさほど難しいものではありません。「十方」は東西南北の四方と、その中間の東北、東南、西南、西北と上下を指し、「法界」はこの世に存在するものを表します。つまりこの世で遍くいきわたる仏法僧を一心に敬い、礼拝しますということです。常に移ろいゆく無常にあって、この仏法僧は不変です。あらゆるところに仏がおられ、教えをお示し下さいます。「香偈」によって、身も心も清めた後に、私たちに仏教を伝えて下さった「仏法僧」に敬いの気持をもって礼拝し、感謝の気持ちを示す、これが三宝礼なのです。※「三宝礼」での礼拝は、各偈文の「常住〇」のところで行います。このとき、両膝と両肘、そして額を床に付け両手のひらを上に向けて耳の位置まであげます。身体に無理のない程度に行って下さい。 浄土宗新聞 H26.4

 

光忠寺だより 11月

お経をそのまま読んでも何が書いているのか、わからないのが現状ではないでしょうか、たまには普段のお勤めの「お経」の意味を考えながら和文で読んで見てはいかがでしょうか。

香偈「こうげ」
願我身浄如香炉 願我心如智慧火  願わくは我が身浄きこと香炉の如く。願わくは我が心智慧の如く。

念念焚焼戒定香 供養十方三世仏  念念に戒定の香を焚きまつりて 十方三世の仏に供養してたてまつる。

現代語訳
願わくは私の身が香炉のように清らかであり、私の心が智慧の火のようでありますように。日々、戒律を守り、心を平静に保つための香を焚き、あらゆる仏さまを供養します。

解説
今回はお勤めの初めの偈文「香偈」です。この偈文の肝要は意訳にあるように自らの身心が香炉(から立ちのぼる煙)のごとく、また智慧の火のごとく清らかであるように、と願うことです。「智慧の火」とは、私たちの心の中に巣食っていて悩みや苦しみのもととなる。煩悩を焼き尽くしてくれる、真理の火を指しています。仕事、家事などの日々の生活に追われ、なかなか静かに心を落ち着けることができないのが、私たち現代人の性ではないでしゅうか。仏教ではしばしばこの心の様子を「水」に例えて説明します。法然上人も次のような歌を詠まれてその心理を表しています。「人の心に、似たりけり 濁りすむこと 定めなければ」このように水は、静かに落ち着きを保てば清浄に澄みわたり、ひとたび風が吹き乱れれば濁りきってしまうものです。私たちの心もまた同じです。
次に「戒」と「定」の字が並びます。「戒」とは、修行者が守るべき仏教の規律「戒律」を保つことで、「定」とは、静かに心を落ち着かせる禅定に励むことです。この「戒」と「定」の修行を経て真理の眼「智慧」へと向かうことから「戒定慧」を三学といい、昔から仏道修行の根幹とされてきました。しかし煩悩に引きずられ、どうしても、心の水が濁ってしまうのが私たち凡夫には簡単にできがたいもの。
法然上人は厳しい修行に身をおかれましたが、三学に堪えがたい自己を深く反省し「わが身は戒行において一戒をも持たず、禅定においては一つもこれを得ず」と仰せになられました。そして、一切の人々にお慈悲を注がれるみ仏が、このような凡夫の救われる道を支度しておかれないはずがない、と求道され、ついに、心が乱れた凡夫のままで救われるお念仏に出会われたのです。
お念仏は、三学によらない教えですが、阿弥陀さまにおすがりする中で、善の心が生じ、おのずと心の水は澄んでいくのです。ですから戒定の「香」を焚くということは、お念仏のなかで自然に行じているのです。身心を清らかにし、仏さまを供養する準備を整える「香偈」。法然上人の想いをしっかりといただき、お称えしたいものです。 浄土宗新聞 H26.3

 

光忠寺だより 10月

葬儀式(そうぎしき)
死者を弔うための一連の儀式。遺体の処理、死の社会的確認、伝統的地域共同体の地縁血縁者による喪家はじめ地域社会全体の精神的物質的な危機の克服、先祖への仲間入り、家業繁栄・子孫安寧などの守護祈願、遺族・親族の悲嘆の軽減、関係者の仏道への導入、などの意味・目的がある。
浄土宗においての葬儀式は、阿弥陀仏の来迎引摂を仰ぎ、故人に剃度・引導を行って仏弟子とし、念仏を称えて極楽往生を念じ勧める儀式である。代って、故人の極楽往生を遂げせしめることが第一義であり、娑婆での生との別離と極楽への再生をはたすものである。「津戸の三郎へつかわす御返事」には「疾く極楽へ参りて、悟りを開きて生死に濁りて・・・一切衆生を遍く利益せん」(昭法全・五〇六)と、極楽への往生は当人だけのものではなく、すべての人々の救いの為であると心得べきであると説いている。
つまり仏教信者・念仏者にとっての往生の目的は、日々の生活のなかで、念仏を称え、臨終に阿弥陀仏の来迎を得て極楽に往生し、菩薩として有縁無縁のすべての苦の衆生を救う還相回向に努め、最終的には悟りを得て成仏を果すことである。肉体的には終焉を迎えても、念仏者の真の目的を果たすためにも往生し、新生の菩薩として生まれ変わる意味をもつものである。・・・(略)
葬儀に対する人々の意識と執行の実体は、1990年以降大きく変化した。社葬などの大きな葬儀は縮小し、自宅葬からセレモニーホールなどで行うこと(斎場葬)が一般化し、僧侶の出仕者数の減少など、葬儀の縮小と簡略化が進行、家族など近親者以外の儀礼的・社交的な弔問客の参列を伴わない家族葬と呼ばれる形態も増えている。近年では宗教的儀礼を伴わない「お別れの会」が行われるようになっている。俗にいう直葬と称される、火葬のみを行う葬送は、宗教者による儀礼を伴わない、たんなる遺体処理の葬法とも提えられる。一方で、平成23(2011)年に起きた東日本大震災を境に、葬儀の重要性と必要性を再認識する傾向があらためて高まり、その内実に関心がむけられるようになった。
「浄土宗大辞典」

 

 

光忠寺だより 9月

起行(きぎょう)
起行というのは行を起こすという意味で、宗教的実践として五種正行といって、五つの正しい行いを実行することを言います。
〈1読誦正行〉 ひたすら浄土三部経を読誦することです。
〈2礼拝正行〉ひたすら阿弥陀仏を礼拝することです。
〈3観察正行〉ひたすら阿弥陀仏および極楽浄土を心を慕い、思いをこらすことです。
〈4口称正行〉ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることです。
〈5讃歎正行〉ひたすら阿弥陀仏をたたえて華、香、水等の供養を捧げることです。
「おつとめ」はこの〈起行〉が根幹となっています。いうまでもなく、五種正行のなかで最も重要なのは口称正行(お念仏)です。お念仏を唱えるためにお経を読み、仏をほめたたえたりするのです。浄土宗のおつとめはお念仏を中心としてそのほかの読誦正行、観察正行、礼拝正行、讃歎供養正行の四種が組みあわさって出来上がっているのです。

作業(さごう)
作業というのは、念仏者の生活態度、規範をいい、具体的には四修をいいます。
〈1恭敬修〉敬い拝む生活態度をいいます。阿弥陀仏をはじめ観音、勢至諸菩薩や仏法僧の三宝や師を敬い、人に対しても、物を扱うのも、仕事をするにも、みなこの敬いの態度を以て接するのが恭敬修です。
〈2無余修〉念仏以外の余行をまじえないで、専らお念仏を唱えることです。
〈3無間修〉念仏を休むことなく続けることです。
〈4長時修〉前の恭敬修、無余修、無間修の三修を今日只今より臨終の夕に至るまで生涯たゆまずつづけることです。
この四修のみ教えもお念仏を唱えるなかに自然にかなった生活が展開してまいります。お念仏の教えはあらゆる生活が念仏のなかに行われることをいうのでして、念仏の称え方として「三種行儀」が説かれます。
〈1尋常行儀〉日常生活の中でいつでも、どこでも平常のままお念仏を唱えることです。
〈2別時行事〉一定の日を限って念仏に励むことをいいます。ともすると忙がしさにかまけておろそかにし勝ちでありますので別時念仏を修して、身と心も励ましととえるのです。
〈3臨終行儀〉臨終のときにあたって、心を乱れぬよう周囲をととのえ唱えます。平常から心得たいものです。
「おつとめ」のなかで最も大切な「念仏一会」は、尋常行儀の実践です。 「お経 浄土宗 藤井正雄」

光忠寺だより 8月

1.お盆の由来(盆=盂蘭盆=盆器か梵語Ullambana(倒懸・済度)・イラン系言語urvan=霊魂 7月(東京)・8月(関西)13日〜16日
お盆は『盂蘭盆経』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子である目連尊者の話しに由来します。あらゆる世界を見通すころができる神通力を得た目連尊者は、亡き母親が餓鬼道の世界で苦しんでいる姿を知りました。目連尊者の母親は、我が子可愛さに他の者をないがしろにしたため、餓鬼の世界に堕ちてしまったのです。目連尊者はなんとか母親を救いたいとお釈迦さまに相談したところ、「雨季の修行(夏安居)が終る7月15日僧自恣の日(修行が終るすべての僧たち)に多くの僧が一堂に集まり、それが過去を反省懺悔して仏道の修行にいそしもうとする仏歓喜の日である。百味飲食(多くの食べ物)を捧げれば、その僧たちが心から称える回向の功徳は広大無辺であるから、現在ある世の父母は百歳の寿命を保ち、今亡き七世の父母は餓鬼道から救われるであろう」とお釈迦さまが伝えました。その通りに目連尊者は諸仏衆僧に供養したところ、母親は餓鬼の苦しみから救われたということです。この経典が中国から日本に伝わって、日本古来の祖先信仰と融合し、宮中でも盛んに行われて昨今見られるような「お盆」として色々な行事として発展し国民的仏教行事になりました。
7月13日を迎え盆、16日を送り盆といって、家々に精霊棚を設け亡きご先祖を迎えてまつります。8月の月遅れ盆、また旧暦7月(現在の8月末から9月初旬)の旧盆と、地域よって異なります。また菩提寺の住職が檀家を回り精霊棚の前で回向をします。お盆のひとときは、家族の触れ合い、語らいの場でもあります。自分を育んでくれたご先祖に感謝し、静かに人生に思いをめぐらすときにしたいものです。

 

2.施餓鬼会の由来
お盆中またはその前後に、寺で餓鬼に施しをする法会が行われます。餓鬼に施しをする法要ですが、盂蘭盆経ではなく「救抜焔口餓鬼陀羅尼経」に基ずいています。その内容は、お釈迦さまの弟子の阿難尊者があるとき、ひとりで瞑想をしているとき、焔口という餓鬼が現れ、「お前の命はあと3日だ。その後は我々と同じ餓鬼道に堕ちるだろう。」と告げました。驚いた阿難はすぐにお釈迦さまのところへ行き、教えを尋ねました、すると「仏・法・僧の三宝に供養しなさい。そして餓鬼たちが食べ物を食べられるように陀羅尼(経文)を教えよう。阿難はこの経文を頼りに餓鬼たちへ施しを成し遂げ、、餓鬼たちは苦しみから救われ、阿難もまたその功徳によって生き長られたと伝えられています。
お寺での施餓鬼会(法要)は、本堂外陣に五如来棚壇を中心に三宝供養と先祖供養を行い、五如来壇の横か濡縁に施餓鬼棚を設え餓鬼供養が行われています。施餓鬼会は、苦しむすべての餓鬼を救う仏身平等、広大無辺の法であり、その修した功徳に基ずいて、その功徳を先祖への菩提増上に回向する法要です。

 

※お盆と施餓鬼会は本来別種のものですが、今日一般的にお盆と施餓鬼会が合わせて併修する「盆施餓鬼」の形式が多くの寺で行われています。
やはり両法会が「餓鬼の救済」という共通点があり、経典の内容や由来が混同され、今日行われる盆施餓鬼が奉修されています。特に普段供養されない霊である餓鬼にも救わずにいられない仏の慈悲をもとにした法要ですが、世界ではテロや民族戦争で多くの人々が亡くなられています。また国内では悲惨な事件事故でも、多くの大切な命が失われました。盂蘭盆会と施餓鬼会が一緒になって営まれることは、この自分という生命には、ご先祖の数えきれない命の継承があり、今の自分があることに感謝し、同じく多くの大切ないのちが失われたことを思い施餓鬼会(法要)やお盆の行事に参加する機会であると思います。

光忠寺だより 七月

起行(きぎょう)
阿弥陀仏の浄土に往生を願うものが行うべき実践修行のこと。浄土宗では安心とともに重視するが、安心が信仰心の確立を示すのに対し、起行とは、安心が確立した上でなされるべき行のことをいう。具体的には五種正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)が特に大切にされ、身(身体)と口(言葉)と意(心・意識)にわたって修すべき実践形態である。浄土宗では特にこの中の、第四の称名(南無阿弥陀仏と称えること)を最も重要な行としている。●●●仏教基礎用語
五種正行とは
1)読誦正行 ひたすら浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を読誦することです。
2)礼拝正行 ひたすら阿弥陀仏を礼拝することです。
3)観雑正行 ひたすら阿弥陀仏と極楽浄土をこころに慕い、思いをこらすことです。
4)口称正行 ひたすら南無阿弥陀仏と口に称えることです。
5)讃嘆供養正行 ひたすらな阿弥陀仏をたたえて華、香、水等を捧げることです。

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