教え

法然上人の教え

阿弥陀さまの本願(誓願)を信じ、口に「南無阿弥陀仏」と名号(名前・称号)を称え阿弥陀さまの光明に照らされて、人格を高め正しく明るく仲良く生活をし、命終わるときは阿弥陀さまの来迎により浄土に往き生まれる事(往生)を遂げ、西方極楽浄土で悟りを開く事を教えの根本としています。浄土宗では次の三つのことを教えの中心にしています。西方極楽浄土ー阿弥陀さまが人々を救う為に建立された世界。念仏を称えるならば、命終ののち生まれることのできる永遠の安らぎの世界。けがれや迷いのない、真、善、美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。私たちは浄土において「仏になるために菩薩行」をつみ、のちに仏になることができるのであります。阿弥陀経に西方十万億土の彼方にある国と記されています。阿弥陀佛―西方極楽浄土の救い主。浄土教において信仰の対象となる本尊仏。「無量寿経」に法蔵菩薩がすべての人々を救う為に、四十八願の願い(本願)を立て長い修行のあとに仏になり、極楽浄土を建立されました。すべての願いがかなえられている世界であります。この仏さまの名が阿弥陀佛です。阿弥陀佛自身による「すべての人々が真心をもって心から浄土に往生を願い、たとえ十遍の念仏を称えれば必ず往生を誓われました。この願いが四十八願の中の第十八願「念仏往生の願」と言われ念仏信仰の源流であります。選択本願念仏集ー浄土宗を開かれた法然上人が、六十六歳の建久9年(1198)に、前関白九条兼実公の請いによって述作したもの。浄土の教えを集大成したもので、阿弥陀佛の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えれば、どんなに罪深い愚かな者でも、必ず救われることを説いています。仏教の修行は法然上人以前は大変難しく厳しいものであったが、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えさえすれば、そこに仏道修行が包含されているとし、これが仏によって選び取られた行であると示されました。浄土三部経や善導大師の観経疏などによって浄土宗の教義を一代仏教の中に位置づけています。浄土宗の根本宗典で浄土宗徒必読の書としています。題号に示された選拓とは阿弥陀佛の選び取られた行のことで、「無量寿経」に説かれる本願に誓われた念仏のことです。この念仏を勧めるに当たって、三種の選択を示しています。つまり仏教を聖道門と浄土門に分けた上、浄土門に入れと勧め、次に正と雑の二つの行の中「正行」を修すべし、さらには正行の中の助業を傍らにして、正定の業を専ら修すべしだとしています。この正定の業こそ、本願に誓われた称名念仏(阿弥陀佛の名を称える)です。この著書によって日本ではじめて凡夫救済を目的にした念仏の教えが確立されました。
                                浄土宗常識用語集・大法輪選書


仏教講座

光忠寺だより 4月

コロナ禍で、各講習会も中止になりましたが、昨年1月に受講した京都教区の日常勤行式講習会で頂いた資料の中に、善導大師「発願文」に基ずく伊藤比呂美さんの詩の資料がありましたので、ご紹介致します。

わたしは願っています。
死ぬときには
あわてず
さわがず
みだれずに
自分らしい心のままで
死んでいけますように。

身にも心にも
くつうはなく
落ち着いていけますように
悟りに入るように
穏やかに

仏さまを目の前に見ているような気持ちで
仏さまが迎えにきてくれたような気持ちで
私たちを救いたいという
仏さまの本とうの願いに乘って
じょうずに
死んでいけますように。

そのお国にたどりついたら
六つの超能力を身につけて
もとの世界に帰り
こんどはわたしが
苦しむ人々を救いましょう。
この大空も
宇宙の真理も
どこまでもつづいてゆきます。
どうかわたしの願いも
とぎれることなく
つづいていきますように。
以上です。
身も心も投げ出して
あみださまにおまかせします。

伊藤比呂美『読み解き般若心経』(朝日新聞出版)82〜84項の改訂版

もとの善導大師の発願文の出典は、『往生礼賛』のなかの日没礼讃の末尾の一節です。
内容は➀臨終正念にして、阿弥陀仏の来迎を受け、上品上生の往生が出来るようにと願う。(往相回向)②往生をし、神通力を得て、穢土に戻って人々を救うことを願う(還相回向)どちらも阿弥陀さまの本願によるものです。できることはただ念仏を称えることだけです。

 

 

 

 

 

光忠寺だより 3月

日々のおつとめー浄土宗日常勤行式⑯最終回  仏さまをお見送り「送仏偈」

請仏随縁還本国 普散香華心送仏 願仏慈心遥護念 同生相勧尽須来

意訳
ご縁に従ってお浄土へお帰り下さい。香を薫じ、華を散らして、心からお送りいたします。願わくは、すでにお浄土にお生まれになった諸先達ともどもに、慈悲の心をもって、お浄土から私たちをお守り下さい。

解説
「浄土宗日常勤行式」の締めくくりとしておとなえするのが「送仏偈」です。「おつとめ」のはじめに「三奉請・四奉請」をとなえてお迎えした仏さまを、お送りする意味があります。どうぞ極楽へお帰りください、そして、私たちのご先祖と共に見守っていてください。とお願いをしつつお送りするのです。実際に花を散らしてお送りするのは難しいですが、心を込めた感謝の想いがこの一節に表れていると受け取るべきでしょう。その願いを受け取って、阿弥陀さま、ご先祖さまも笑顔で見つめてくださることでしょう。
私たちと仏さまの思いとは、一方通行ではないのですから。こうして仏さまをお見送りした後、心静かにお十念をとなえてお勤めを終えます。

続けること
「日常勤行式」は日常の語でもわかるように、日ごろのおつとめの式次第ですから毎日勤めるのが理想です。「継続は力なり」の言葉がありますが、まさに「日常勤行式」にも同様のことが言えます。続けること、つまり、積み重ねることが大切なのです。連載中、たびたび「深く信じ、その功徳を他者に振り向ける」という表現をだしました。「深く信じる」ことは簡単なようですが、一つの想いをずっと心に留め続けるのは大変なことです。ましてや法然上人のように、確固たる信念をもって阿弥陀さまへの信心を保ち続けることは、、だからこそ、日々の「おつとめ」が大切になってくるのです。法然上人はこの、深く信じる心や他者への慈しみの心は「お念仏を称える毎日の中で自然と具わる」としています。そして、その念仏を中心として、心から阿弥陀さまのみ教えを信じて念仏がとなえることができるように構成されているのが「浄土宗日常勤行式」なのです。
ご先祖さまがいらっしゃる、そしていつかはわたしたちもお迎えをいただく、極楽浄土に想いをめぐらしつつ、生活の一部として「日常勤行式」をおつとめください。(終)浄土宗新聞より

 

光忠寺だより 2月

日々のおつとめー浄土宗日常勤行式⑮ 感謝の心 礼拝で「三唱礼・三身礼」

三唱礼

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

三身礼

南無西方極楽世界本願成就身阿弥陀仏

南無西方極楽世界光明摂取身阿弥陀仏

南無西方極楽世界来迎引接身阿弥陀仏

解説

「三唱礼」「三身礼」いずれも再び阿弥陀さまへの帰依を表明するとともに、「おつとめ」のはじめのほうでお迎えした諸仏諸菩薩へのお別れの意味を込めて唱えるものです。地域・寺院によってどちらを唱えるかはことなりますが、なじみのある方を唱えればいいでしょう。ここでは「三唱礼」を中心に説明をします。「三唱礼」は抑揚(節)をつけて阿弥陀さまの名をおとなえし、「三身礼」はあみださまの大きな三つの特徴を讃えます。いずれも、礼拝とともに帰依の気持を表しましょう。
ここで行う礼拝は上礼と言い、正座、合掌の状態から立ち上がり、再び座るときに、額、両肘、両膝の五カ所を地に着ける、五体投地をします。
略「なーむあーみだーぶ」と礼拝を三回繰り返します。礼拝の時に、両掌を上に向けて両耳につけるのは、阿弥陀さまの両足を掌にいただく気持ちを表したものです。これは最高の尊崇を形で、お勤めの最初にお迎えした阿弥陀さまに、最高の礼拝で口にも体にも感謝の心を表すものなのです。次回は仏さまをお送りする「送仏偈」を解説します。浄土宗新聞より

 

 

 

光忠寺だより 11月

日々のおつとめー浄土宗日常勤行式⑭

共に生きる「総願偈」

衆生無辺誓願度 煩悩無辺誓願断 法門無尽誓願知 無上菩提誓願証 自他法界同利益 共生極楽成仏道

意訳
衆生は教えようもなく多く、またその煩悩も限りがありませんが、煩悩を断ち、すべての人を悟りの彼岸に到達させることを誓います。数え尽せないほどのある仏の教えを知り、理解し、さとりの道を体得すると誓います。私たちすべてが等しくご利益を得て、共に極楽に生まれ、仏道を完成させます。

解説
この「総願偈」は六つの句で構成されてますが、最初の四句は「四弘誓願」とよばれ、あらゆる菩薩(さとりを求める修行者)に共通した願いを示しています。それに恵心僧都源信作『往生要集』に説かれる二句を加えたのが「総願偈」です。はじめの四句は菩薩としての基本理念「上求菩提下化衆生」という、自らがさとりの境地に至ろうとするとともに、あらゆる人々を救おう、との意思表明です。この四弘誓願は各偈文の最後の一字をとって、「度断知証」という言葉で、菩薩としての四つの修行姿勢が示されています。そこに後の二句、生きているもの全て、自分も他者も等しく念仏の功徳を得て、共に極楽へ生まれて、仏道を完成させましょう。と続いています。
菩薩と聞いてイメージするのは、観音菩薩や地蔵菩薩でしょうか、また、そうした菩薩の修行と聞くと、わたしにはとてもできない、と思われる方も多いでしょう。しかし大乗仏教(日本の宗派は全て)では、仏道を志した人々を菩薩と呼びます。いうなれば、仏さまの教えを学ぼうとする私たちは菩薩の卵と言い換えることもできます。そんな私たちの度断知証はどんなことから始めればよいのでしょうか。「度」は「渡」と同じ意味をもちますので、人々を迷いの世界から導くことを意味します。他の人にお念仏の尊さを教えて一緒にとなえる機会をもてば、それは「度」といえるでしょう。「断」は煩悩を断つこと。人の悩みを聞いて、力になってあげることもいいでしょう。「知」は八万四千といわれるほどの仏教の教えを学ぶことですが、学校、仕事など生活の中でも学ぶべき事柄はたくさんあります。まずは身近なことから一つひとつしっかりと。「証」は「(さとりの境地を)実証する」という意味ですが、何事も最後までやり切る、という強い信念を日頃からもつことは、日々の小さな変化につながることでしょう。これらの実践は、結果とそして自分のみならず地域や社会全体への変化にもつながるのではないでしょうか。そこで注目したいのが後の二句に説かれる「共生」です。これは、念仏の功徳でみな共々に極楽へ往生しましょう、という行いと願いを強調しています。私たちは一人では生きていけません。知る、知らずを別として必ず様々な人との縁があります。ですから自分を良しとするのではなく、他の人をも共に極楽へ導こうとすることが共生になります。つながりのなかにある私たちの命。共に慈しみ合い、生きる心を日々のおつとめの中で育んでいきましょう。 浄土宗新聞 h27.2

 

光忠寺だより 10月

功徳を回らし向ける「総回向偈」

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

意訳
このお念仏の功徳を、すべての人々と平等にわかちあい、共に仏道を歩む志をおこして西方極楽浄土に生まれたいと願います。

解説
前回の「念仏一会」では、阿弥陀さまにすべてをお任せします。といった気持ちでお念仏を称えられたかと思います。続く「総回向偈」では、縁のあるなしにかかわらず、あらゆる人々にも回らし向け、ともに往生できるように願いながらとなえます。この偈文のポイントは、すべての人々にその功徳をふり向けるという点です。ここで説かれる功徳はいうまでもなくお念仏となりますが、その功徳について『無量寿経』では「大利を徳となす。すなわちこれ無常の功徳を具足す」とあり、法然上人も主著「選択集」のなかで、「無上大利の念仏」とし、その功徳は広大無辺であるとしています。阿弥陀さまからいただいたこのありがたいお慈悲を、一人だけで享受するのではなく、すべての人々にもおすそ分けしよう、という心が大切なのです。
功徳ポイントのおすそわけ
お念仏や功徳によって享受した功徳に対し、「積もる」という表現をすることがあります。功徳の意味を考えるとき、私たちの生活の中で近いニュアンスとしてあげるなら「ポイント」がそれにあたるかもしれません。買い物などの際にポイントカードを提示して貯まるあのポイントです。
ある企業のポイント交換商品の一覧には、「旅行券」「電化製品」などに加え「海外の難民支援」「震災遺児の支援」などがあります。自分のためだけではなく、他者に振り向ける、まさに「功徳ポイント」のおすそわけでしょうか。買い物ポイントは、額のに応じて交換できるものが違いますが、お念仏はたとえわずか一回でも、往生浄土という功徳がいただけます。だからこそお慈悲に感謝し、日々にお念仏に精進することが大切なのです。これが「世俗のポイント」との決定的な違いです。日々のお念仏の中で悲しみの心が培われ、お互いに思いやりの心で接しあう。こんな慈しみの社会も結果として私たちに授けられた功徳でありましょう。
浄土宗新聞 h27.1

光忠寺だより 9月

お勤めの要「摂益文・念仏一会」

光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
意訳
阿弥陀さまの光明は、くまなく全ての世界を照らし、念仏する人々を必ず救いとってくださいます。
念仏一会
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・・ 南無阿弥陀仏
だんだんと高まってきた阿弥陀さまへの思いを胸に、数にとらわれず、一心に繰り返しおとなえしましょう。
※念仏のとなえ方は、菩提寺のご住職にお尋ね下さい。
解説
「摂益文」は、阿弥陀さまの光明があらゆる世界をくまなく照らし、念仏する人を必ず救いとる、ということをあきらかにしています。法然上人はその威光を一首の和歌に託しています。月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ そう、浄土宗宗歌の「月かげ」です。その意味するところを「摂益文」と照らし合わせて説明しましょう。
前半の「月かげの~なけれども」は、、分け隔てなく夜の闇をこうこうと照らしている月の光(月かげ)を光明、つまり阿弥陀さまの救いの光と重ね、気づきと気づかないとに関わらず、またお念仏をとなえる人も、そうでない人も、常に照らしている、と表しています。そして後半の「ながむる人の 心にぞすむ」は、その月を仰ぐからこそ、照らされていることにも、その明るさにもきがつく、つまりは、お念仏をとなえることによって、阿弥陀さまの光に気づき、極楽へ迎えられることへの思いがより深まる、ということなのです。
納得するまで
さて、「日用勤行式」のクライマックスとも言える「念仏一会」です。法然上人は主著「選択本願念仏集」も中で、「阿弥陀さまの光明の中にはあらゆる功徳がおさまっている。家に例えていえば、阿弥陀仏は家そのものである。家といった場合は、柱・梁・棟などを含むが、柱や梁という言葉には家が含まれない」と、名号に含まれる数々の功徳を讃えています。
この「念仏一会」は、「南無阿弥陀仏」を一心に称えますが、「十念」のように特に回数の決まりを設けていません。様々なお経の本にも「繰り返しとなえましょう」、「なるべく多くとなえましょう」という説明が多いかと思います。お念仏の数については法然上人が「上を臨んでは、一生涯、下を見れば、お念仏の素晴らしさを聞いて、10回、1回のうちに臨終を迎えてしまう場合まで」としています。はじめのうちは、数、時間を決めてという方法もありますが、基本は自分の気持が納得するまで繰り返しおとなえすることです。
いずれにせよ、これまでの偈文、経典の教えのままに、お念仏をとなえれば間違いなく往生ができる、という確信を持ち、「南無」という帰依の心、つまり、お願いします、お任せします、というこころでとなえましょう。浄土宗新聞 H27.1

 

光忠寺だより 8月

上人最後の教え「一枚起請文②」
前回に引き続き、法然上人のご遺言ともいえる「一枚起請文」を解説します。今月は下に示した後半部分を中心に説明しましょう。
原文
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚頓の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
意訳
かりに私が、この他にさらに奥深いことを知っていながらそれを伏せているようなことであれば、お釈迦さま、阿弥陀さまの慈悲の心をからはずれ、本願による救いからもれてしまうでしょう。念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまの教えをよく学んでいても、自分は経典の一文さえわからない愚かな者と受けとめ、知識のない者と同じように、智者ぶったふるまいをしないで、ただひたすらに念仏に励むべきです。以上に申し上げたことは私の教えとして誤りがない、という証のために両手印を押します。
浄土宗の信仰心の持ち方とその実践についてはこの一枚の紙に記したことに尽きます。私(源空・法然上人)が存ずるところは、これ以外にありません。私の死後、誤った考えが何もでないように、思うところを記しました。
建暦二年一月二十三日。(法然上人の署名と花押)

解説
後半は、「この外に奥深き事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし」この一文ではじまります。ここでいう「この外」とは、前半部分で様々に示しきた、お念仏をするための心構えのことで、お念仏によって必ず往生がかなうと確信すること、さらにその確信ですらも念仏を継続するうちに自然に具わる、ということをいっています。そしてここでは、法然上人ご自身があらためて、「お念仏をとなえる以外に特別な方法も隠しだてもありません」と誓い、さらに、それが偽りであったならば、私自身が釈迦如来と阿弥陀如来の二尊の救いからもれ落ちてしまうでしょう、とおっしゃっています。
ただひたすらに
このような宣言をした法然上人ですが、そのお念仏の実践方法についてはどのように示されているのでしょうか。続いての意訳に、念仏を信じる人は、たとえ仏教をよく学んでいても、その経典の一文さえわからない愚かな者と受けとめて、とあります。人というのはおこぶり高ぶりの心を起こしやすいものですが、それは学問を積んだ人にはとかくあらわれがちのようです。
法然上人は『選択本願念仏集』撰述の時、その筆記の任にあった弟子が「私は人より書が上手だからこの任を与えられた」と言ったことに対し、子の弟子は高慢な心を起こしている」、その任から外したといいます。また上人は多くの経典に学び、周囲の人からは「智慧第一の法然房」と呼ばれましたが、ご自身では、「愚痴の法然」と称されていました。このように、念仏をとなえる時はおごり高ぶることなく、ひたすらに念仏をおとなえする、ただそのことだけに尽きるのです。
後々まで
そもそも、「起請文」というのは、多くの神仏に対して誓うこと、つまり、大いなる存在に対すて偽りのないことを宣言するものですが、この「一枚起請文」ではさらに、ここまで述べたことに誤りがないことを証しとして「証のために両手印をもってす」として両手で手印(手形)を押しています。そして「浄土宗の全てをこの一紙に記しました。私、源空(法然上人)が存じていることはこれ以外ありません」と念を押すように繰り返したあと、「私の死後、誤った考えが出ないようにこれを書きました」と結んでいます。
実は法然上人在世中も、直々に秘密の教えを受けた、とか、普通の人にはあまりに高度などで本当の教えはまだ説いていない、と言った噂が流れており、それは上人自身の耳にも聞こえていました。
法然上人は、それらの風聞や間違った流布によって称名念仏の正しい教えが廃れないよう、そしてきちんと伝わるように起請文という形をとって、教えの真髄を伝えたのです。お念仏の教えを余すところなく記した法然上人の御遺訓である「一枚起請文」。ゆっくりと噛みしめるようにお読みになり、一心にお念仏をとなえて下さい。
次号では「摂益文」を解説します。 浄土宗新聞 H26.12

 

光忠寺だより 7月

上人最後の教え  「一枚起請文①」
今回から2回に分け、法然上人のご遺言ともいえる「一枚起請文」を解説します。今回は下に示した前半部分を中心に説明しましょう。

原文
唐土わが朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

意訳
私が説く念仏は、中国や日本の多くの学者が説くような、心をこらして仏さまの姿や極楽のありさまをみようとする「観念の念仏」ではなく、また学問によりその意味を理解してとなえるものでもありません。浄土への往生のためには、「南無阿弥陀仏ととなえることで必ず往生する」、と確信して念仏すること以外、何も仔細はありません。ただし、念仏をとなえる上で、三心という心の持ち方、四修という態度が必要とされますが、それすらも念仏をとえるうちに自ずと具わるのです。

解説
臨終の二日前
「一枚起請文」は、「宗祖(元祖)法然上人御遺訓」と称されるように、上人がご臨終の二日前に書き残された、まさに上人最後の教えとなったものです。その名のとおり、一枚の紙にしたためられた、わずか380字ほどの文ですが、そこに浄土宗の教えの根本が簡潔明瞭に示されています。法然上人には浄土宗の根本聖典となる『選択本願念仏集』(選択集)という著書があります。その16章にわたる長文の『選択集』と、短い「一枚起請文』の関係を、江戸時代の高僧・義山は、「広くすれば選択集、縮むれば一枚起請也」と表現しています。つまり「一枚起請文」には、短くとも浄土宗の教えが余す所なくおさめられているということです。仮名まじりの美しい和文体で覚えやすいため、皆さんのなかには暗記されている方も多いことでしょう。冒頭に、「一枚起請文」は法然上人がご臨終の二日前に遺されたと書きましたが、それは弟子の勢観房源智の「上人の教えを滅後の形見として頂きたいのです」との願いによって、書き与えられたものでした。源智は常に上人のそばにいて、身のまわりのお世話をしながら、直接教えを受けた弟子の一人です。上人のご臨終が近いことを案じての願いだったのでしょう。源智は、その「一枚起請文」を肌身離さず持ち歩き、上人滅後より一層その志を深く胸に刻みました。そしてお念仏を広げることに励み、ご入滅された京都・東山の地に知恩院を建立して、法然上人を開山第一世として仰ぎました。源智は第二世に列せられています。
「観」から」「称「」へ
さて、法然上人が浄土宗を開くまで、「念仏」といえば、阿弥陀仏や極楽の様相を心の中に思い描く「観念の念仏」を示すものであり、念仏の心を理解するということが普通でした。しかし法然上人が主張したのは、「わたしの説く念仏は、極楽に生まれることを願い南無阿弥陀仏と一心にとなえるものは、必ず極楽浄土に生まれさせるという阿弥陀仏の本願に基づく念仏です」ということ。即ち、声に出してとなえる「称名念仏」でした。これは上人が生涯を通して説き貫いたことであり、「起請文」の「別の仔細候わず」との言葉でもわかるように、この称名念仏以外には何も付け足すことはありません。と明言されています。
自然に具わる
「三心四修と申す・・・こもり候うなり」とありますが、三つの心、四つの修めとは何かとみていきましょう。先ず三心とは、念仏者の心構えで、①至上心(嘘や偽りのない真実の心)②深心(自らのいたらなさをよくわきまえ、阿弥陀仏の救いを深く信ずる心)③回向発願心(お念仏をはじめとする善根を往生のためにふりむける心)の三つです。
次に四修とは念仏者の態度、①恭敬修(ひたすらに阿弥陀さまを敬うこと)②無余修(お念仏以外は何も混じえないこと)③無間修(お念仏を絶え間なくとなえること)④長時修(お念仏を①②③の姿勢で臨終まで続けること)の四つです。
これらはお念仏をとなえる者が必ず身につけなければならないとされているものです。しかし法然上人は、このような、全く動じないほど、固くお念仏による往生を信じるという心構えや態度でさえも、お念仏をとなえるうちに決定、つまり、自然に具わる、といわれているのです。

次回は後半部を解説します。 平成26年11月 浄土宗新聞

 

光忠寺だより 6月

善行をふり向ける「本誓偈」

弥陀本誓願 極楽之要門 定散等回向 速証無生身
意訳
阿弥陀さまの本願は、人々が阿弥陀さまに救われて極楽に往生するための肝要な門です。すべての善根功徳をふりむけて、速やかに生と死を超えた身となりましょう。

十念(十遍のお念仏を称えます)

解説

前号で「四誓偈」を読み終えました。続いて、様々な経典やその註釈書などから、おつとめの主旨にあわせた回向文を読みます。ここでは、日常勤行式で読まれる代表的な偈文「本誓偈」を説明しましょう。意訳の一節目には、「四誓偈」にも説かれていたように、「阿弥陀さまの本願(第十八願=念仏往生願)は、極楽に往生するためには肝心かなめの入り口であることが述べられています。それはとりもなおさず、お念仏を称えることが、わたしたちが阿弥陀仏の世界へ往生するための最も確実な方法だということができます。そして、次に、偈文に「定散」、意訳に「善根功徳」という少々難しい言葉が出てきます。
定と散
正式には「定散」の「定」は定善、「散」は「散善」といい、定善は、心にわずかの曇りもなく、仏さまの姿や極楽の様相を念ずること、散善は心が散漫になって集中できない者(凡夫)でも修められる、道徳的な善行をいいます。また「善根功徳」の「善根」は善をうむ根本、「功徳」も、良い結果をもたらす善行のことで、つまりこの部分は、生活全般の細かなことまで含めた全ての善い行いをふり向けて、と理解できるでしょう。そこにはもちろん、お仏壇の仏さま、ご先祖さまへの毎日のお給仕、勤行やお念仏をとなえることなどが含まれます
生死を超えて
最期に「生死を超える身」とは、もちろん、不老不死や超能力などではなく、お念仏によって全てを阿弥陀さまにおまかせすることで、生死に対する煩わしい思いが消え、命終後は極楽への往生が決まる身となる、ということです。「本誓偈」はこれまでに読んだ偈文や経典で深まった阿弥陀仏への信心をあらためて確認し、お念仏や善行により、生死を超えた身となりましょう。と説かれています。そして、「四誓偈」を読誦した思い、仏さま、ご先祖を供養した行い、それらのすべてをお念仏にのせるつもりで、今一度、十念を称えます。今回紹介した「本誓偈」は、阿弥陀仏への信心を新たにし、自身の往生を願う偈文ですが、両親、家族など特定のご先祖さまへの回向の際には「聞名得益偈」、すべての先亡の精霊を回向する際には「一切精霊偈」など、お勤めの主旨にあわせて回向文を選べばよいでしょう。回向文の詳細、読み方などは菩提寺のご住職にお伺い下さい。
※浄土宗発行の『日常勤行式』には「聞名得益偈」「一切精霊偈」は未掲載です。H26.11浄土宗新聞

光忠寺だより 5月

阿弥陀さまの誓い「四誓偈」②

前回は「四誓偈」に説かれる四つの誓願のうち、はじめの三つについて触れました。それは、①自ら立てた四十八願を成就すること、②人々をもれなく救うこと、➂阿弥陀如来の名前をあらゆる世界に届かせること、を必ず実現する、との法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)の決意表明でしたね。今月は四つ目の誓いです。

原文

離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為諸天人師 神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難 開彼智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道

功祚成満足 威曜朗十方 日月戢重暉 天光隠不現 為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法師子吼 供養一切仏 具足衆徳本 願慧悉成満

得為三界雄 如仏無礙智 通達靡不照 願我功慧力 等此最勝尊 斯願若剋果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華

意訳
私(法蔵菩薩)は欲を離れ、深く正しく思念し、清らかな智慧をもって修行に励み、この上ないさとりの道を求めて多くの人や天人を導く者となります。(世自在王如来は)勝れた不可思議な力をもって大いなる光を放ち、果てしない世界をあまねく照らし、欲望、瞋り、愚かさ(三垢冥)の闇を消し、広く人々の災いを取り除いておられます。また智慧の眼を開き、人々の煩悩の闇を滅し、地獄、餓鬼、畜生の三悪道を閉ざして悟りへ続く道に導き仏としての功徳を完全にそなえ,その威光は、あらゆる世界に輝いており、太陽と月の光を押さえ込んでしまうほどです。天の光もまた隠れてしまうでしょう。人々のために仏の教えの蔵を開き、功徳ある教えを広く一切の衆生に施し、常に人々の中でその教えを獅子が吼えるように高らかに教えを説いておられます。そして(世自在王如来は)すべての仏を供養してあらゆる功徳を供え、誓願と智慧とをすべて成就し、全世界の雄者となられたのです。世自在王如来の自在な智慧は、あまねく行きわたり、照らさないところはありません。願わくは私の功徳と智慧の力も、この最も勝れた仏と等しいものでありたいと心から願うものです。もしこの願いが成就したならば、全世界が感動し、天に舞う天人たちも美しい花をふらせて、願の成就を証明することでしょう。

解説
最も勝れた仏
前号では「誓不成正覚(私が立てた願いが成就できなければ、決して仏になりません)」という文が3回出てきたので、三つの誓願の内容をつかみやすかったのですが、今回はその文字が見当たりません。実は四つ目の誓いの内容は、上欄の経文の最後のほう、「願我功慧力 等此最勝尊(願わくば我が功慧の力 この最勝尊に等しいからん)」に集約されています。最勝尊と同じようになりたいー。「最勝尊」とは、48の願いを述べる法蔵菩薩を、その眼前で見守っていた世自在王如来のこと。つまり法蔵菩薩は、「私もあなた様(世自在王如来)のようになりたいのです!いえ、必ずなってみせます!」と、その思いを宣言する、それが四つ目の誓いです。

無限の光、永遠の光
世自在王如来のように。すなわち、完璧なまでの功徳を具えた如来(仏)となりたい、ということです。それを具体的に示したのが、冒頭の「離欲深正念」以下の経文です。ここで法蔵菩薩は、世自在王如来のお徳の素晴らしさを、まさに筆舌を尽して讃えています。その中で最も強調されているのは、世自在王如来が放つ「光」です。それは私たちが日ごろ接している物理的な光というより、闇にさまよう私たちの心を照らし出す、さとりの光、慈悲の光です。光は、優しさやぬくもり、希望といったものを連想させますね。まさに仏の光も、悩み、苦しむ衆生に優しく寄り添い、ぬくもりと希望を与えるものとして説かれています。世自在王如来の輝き放つ光を見、法蔵菩薩はそれが空間的に無限、時間的に永遠であることを理想にかかげたということができるでしょう。

阿弥陀如来となって
こうして世自在王如来のような慈悲の光を放つ仏となることを心から願った法蔵菩薩。「四誓偈」の最後、「斯願若剋果」以下は、上段の意訳に、その願いが成就されれば、天人が美しい花を降らせてそれを証明するでしょう。と結んでいますが、果たしてその誓いは成就されたのでしょうか。そのことを明らかにする教えは『無量寿経』の巻下(「四誓偈」は巻上)の冒頭に説かれています。それはお釈迦さまが弟子である阿難に「阿弥陀如来の極楽浄土に往生を願い念仏を称える者は、即座に往生を得て、そこから外れることはない」と告げておられるのですが、このことは四十八願の中で最も大切な十八番目の「念仏往生の願」をはじめ、四十八願すべてが成し遂げられ、法蔵菩薩は世自在王如来と同じように、悲しみの光をそなえた、阿弥陀如来となられていることの証しといえるのです。現在もあらゆる世界に平等に光を放ち、お念仏を称える私たちを極楽浄土へと導いてくださる阿弥陀さま、そのことを表すように阿弥陀如来ははかり知れない寿命と光明を持つ仏として「無量寿仏」「無量光仏」とも呼ばれます。さて、法蔵菩薩の48の誓いは成し遂げられ、お念仏を称えれば、誰もが必ず西方極楽浄土へ往生ができる、ということが証明されました。この阿弥陀さまの強い意志を心に刻み、ご自宅の仏壇にいらっしゃる阿弥陀さまに読誦とお念仏を捧げましょう。
H26.9  浄土宗新聞

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