家の間取りと育て方
本堂と庫裡(住まい)を再建して、23年が過ぎました。私が育った頃は、この寺は本堂と庫裡が合わさった藁葺屋根にトタンを被せた建物でした。その建物の一角に8畳二間を本堂として使用していました。江戸時代末期から今の本堂が完成するまで、150年以上本堂のないお寺でした。昔の建物ですから襖と障子を外すと大きな部屋となり寺の行事や法事にに使用ができました。今の庫裡を建てる際、家族其々が帰っても、居間(リビング)を通らないと各部屋へ入っていけないようにしましたから、子供が学校から帰って黙って部屋へ入られないのです。必ず親は子供の顔が見られるように、子供も親の顔が見られるようにしました。今から23年前は、すでに家庭内暴力とか学校(校内暴力)でのいじめや様々な問題があり社会問題になっていた時代でした。子供の教育や育て方について色々とマスコミも取り上げていました。私も特に子供に対して、これと言った教育方針もなく、ただお寺ですから、仏さまに手を合わせること、と善悪のけじめだけは(悪い事は絶対するな)子供に教えたつもりです。あとは妻に任せっぱなしでいいかげんなものでした。しかし家を建てることは、一生に一回あるかないかの人生にとって一大事の事業ですから、家の間取りについては、私のこだわりがありました。『家族が仲良く過ごすこと』ができる住まいができれば、という夢があり、そのためには、一日一回は必ず家族の顔が見られること、挨拶ができること、また子供が勝手に、黙って各々部屋へ入れないような間取りにしたわけです。当然外へ遊びに行くにも、親がいる居間を通らなければ行けません。二階の子供部屋は鍵がかけられず、子供は長男と次男でしたから、一つの部屋を本棚と机とベットで区切り鍵がかけられる個室は与えないことを考えていました。学校の成績は、カエルはカエルの子で、期待は持てなかったが、字が読め、ある程度の計算ができれば良しと考えていました。それとスポーツとか武道で、仲間と切磋琢磨して、共同生活を学んでくれれば、社会人になってもなんとかなる、という私の勝手な考えで育てましたから、本人たちはどう思っているかわかりませんが、子供はいつまでたっても心配なものです。最近ニュースで、成人になった子供の事件で、親の責任が問われるようですが、親は親で、子供の責任は親にはない。ときっぱりと言えないのが今の私の考えです。現在の社会は、今思うと子供を思うあまり溺愛したり、かぎっ子など放置し、子供のしつけや育て方まで、保育園や幼稚園、小学校や中学校の教諭まで押し付けた時代です。子供に対して、あらゆる時間や金を使い、偏差値重視の進学校に進学させ、いい会社へ就職できればよしという、自分の子であるがゆえ、子供の人生まで親の思いどおりにする親がいますが、そのことが子を私物化することに気がついていない親がいます。「子は親の言う通りにはしない。親のした通りにする。」ということが、どこかの掲示板に書かれていました。自分が親にした通りに、その子も親にそうするでしょう。「三つ子の魂百まで」と言いますが、私たちの性格は、3歳までに養われるそうですが、もしそれが本当にそうであったなら、親にとって子供のしつけこそ大切なことです。特に母親のスキンシップは時間をかけて行われることが望まれます。現在、母親や父親が、幼児を自分の思いどおりにならない、その腹いせに、最も弱い、なんの抵抗もできない赤ちゃんや幼児を虐待し殺していまう事件がありますが、大人になり切れない大人が結婚をして、子供を産んでしまうこと自体が悲劇かもしれません。わたしも可愛い孫がいますが、こんな幼い子をどうして虐待するのか、そんなニュースや記事を読むだけで心が痛みます。ほんとに悲しい事です。親は子供の教育の責任を学校や社会に責任を転換し、また子供を責めたりします。しかし、まず親が「まともな生き方をしているのか」自分自身に問うことも必要ではないでしょうか。日本も豊かな先進国と言われていますが、高度経済成長期はお金が入り物が豊かになり、また科学が進歩して、なんでも便利な時代になりました。そのひずみとして、青少年の非行犯罪や家庭の崩壊、老老介護、学校でのいじめによる自殺、教育問題、雇用問題、年金問題など社会問題が続出しました。しかしここ20年は景気も落ち込み、経済も低成長期になり、サラリーマンの平均収入が400万になりバブル時代より下がっているそうです。私たち自身もやっと足元を見る時代になったかもしれません。親がまず、自分さえよければ、また自分の子供の利益や出世だけを望むのでなく、自分本位の考えを改め、人を思いやる優しい心を持ち、自分が実践すること、また周囲の人に伝えていくことが社会人としてもっとも大切なことではないでしょうか。