葬儀に思うこと3
今から15年ほど前に遠縁の親戚で禅寺のご老僧が亡くなられました。その葬式に先代(老僧)と私住職とお参りに行きましたところ、本堂での葬儀の飾り付け準備は住職のもと檀家一同で準備を行い、本堂内は白い布で覆いその他の飾り付けは一切なく質素ではありますが、通夜・本葬と厳かに禅宗の所作作法で葬儀が執り行われました。この葬式の司会は僧侶の方で、葬儀の式次第(法要の概要・流れ)は配役の僧侶の方が行われ無事葬式が終わり喪主(住職)の御礼の挨拶(気持ちのこもった言葉)で、お参りの皆様には十分気持ちが通じたことと思います。この葬儀の主役は「故人・ご老僧です。」住職のもと檀家と近隣の僧侶の方達の協力で行われたこころ温まる葬儀でした。いまでは共同体での葬儀がそれぞれの個人中心の葬儀になり、すべて葬儀社任せスムーズに事が進めばそれでよしとし、ご遺体は長年住んだ家には帰ることなく病院から直に葬儀社に送りそれが当たり前になったように思われます。故人への思い(敬慕)が薄れ、形の上で事が進めば、責任が果たせたと思われるのでしょうか、なにか寂しい思いがします。個性化多様化が進み、経済的な事情も踏まえ、葬儀の大小にはこだわらず、故人にとってこころ温まる葬儀とはどういう葬儀をいうのか、「誰々さんの葬式はあの方の個性が出てた葬儀だ」「祭壇が花で覆われた綺麗でモダンな形式であった」とか要するに、自分のできる限りの思いで感謝を込め故人とお別れをし、合掌のこころであれば、形式、大小関わらずこころ温まる葬儀ではないでしょうか、またできることであれば、ご自分の葬式について、生前中に夫婦、親子で話しをし、実際に葬儀社で二つほど見積を取り調べておけばおよその経費がわかります。また菩提寺があれば「葬式」の導師等に関わる布施もお聞きになれば、住職さんも教えて頂けると思います。私たち人間はとかく死を忌み嫌い、死を現実の自分から遠ざけ目をそらします。健康であろうが、若いからまだまだ大丈夫ではないのです。死を考えることは生きることがより深く意味ある人生を歩むことができるのではないでしょうか、今日一日に感謝をし精一杯生きること、毎日がこの繰り返しです。私は寝るときには十回の念仏起きれば十回の念仏を称えています。目が覚めたら与えられたもう一日に感謝、南無阿弥陀仏