葬儀に思うこと4
某地方新聞が「葬儀について」昨年に連載をされていました。そのアンケートの中に「あなたの人生に宗教が必要?」→そう思う65%そう思わない33%不明2パーセント、「あなたは死ぬことが怖い?」→少し怖い42%余り怖くない33%全く怖くない11%非常に怖い12%その他2%、「葬儀費用をどう思いますか?」→こんなにかけたくない61%このくらいならいい37%不明1%、「自分が死んだら葬式をしてほしい?」してほしい67%してもらわなくていい30%不明3%、「あなたの葬儀はどうあってほしい?」→質素な葬儀71%盛大な葬儀14%その他15%、と回答がありました。その他色々とアンケートの問いかけと回答がありましたが。その回答(質問の内容にもよるが)のパーセントが今の葬儀に対する世相が現われているのではないでしょうか、葬儀式が家族葬や直葬など小規模化に至る原因は葬儀式の形骸化であり、経済的な問題など様々な事が考えられます。家ではなく個性化が進みまた死生観や人生観をなど考える事なく世間との関りをもたず、煩わしいはことは避ける傾向にあります。仏教の葬儀式は通夜、葬式、中陰、年回と残された家族と共に死者を祖霊として供養します。亡くなればそこで関係が無くなるのではなく、死後も年回法要が続き供養し、残された家族も供養と共に仏道を深めていくわけですが、現代は寺と檀信徒の関係でも教化は十分とは言い切れません。ましてや寺と一般社会の関わりとなるとほとんど関係がもてないわけです。「葬式仏教」と揶揄され批判をされるのは、、住職と遺族、参列者の考えが葬式に含まれる「葬送儀礼」の意味が共有できないからです。、「形だけ」の葬儀式であり、その葬儀式に多くの費用や時間をかけることに疑問をもたれることは当然だと思います。普段は煩わしさやさまざまなつながりを切ろうといていますが、現実は親戚や知人、会社、町内等多くの方達とつながりの中で、わたしたちが存在している事実をこの葬儀式で知るわけです。いのちの尊さや人とのつながりを改めて気づかされる「葬儀式」でありたいものです。また寺の住職として、人間関係の絆や縁が薄くなった現代だからこそ、これからの葬儀はどうあるべきか、永い歴史の中で仏教は葬儀と深く関わりを持ち、その時代の人々の悲しみ苦しみや死者に対する恐れから起こる宗教的強い願いに応え、「葬儀」という儀式により心を癒しやすらぎを与え仏の道を示してきました。私たち住職や寺が、大きく変わろうとしている現在の葬式に「葬儀とはどうあるべきか」を問いかけ、「何ができるのか」を考えなければならないと思います。
11月 2015のアーカイブ
浄土宗葬送儀礼講座2
亀岡組研修会ー葬儀式②ー平成27年11月7日 亀岡組大円寺住職 大澤 亮我先生
今回は枕経から通夜までの内容です。枕経はいつどうのようなかたちで行われたのか、江戸時代の幕府の寺請制度ではじめられたのではなく先に枕経(枕念仏)があり、そこに検葬(宗門寺住 持から死後死者に頭剃刀を与え戒名を授ける事)が付加さたものです。また入棺前に住持が来て死体を点検(これは傷死毒殺等にては無きや否やを検するにて世法に関わりたる事なり)し検葬(邪宗改めの葬儀)が行われた。当時の寺の住職は検僧葬の役割がありました。また臨終行儀での枕念仏が行われ、傍人の伝「その人(死者)のために念仏し懺悔する」が数名の人で、最後の看病をしながら、病者の息に合せ念仏が称えられた。資料は良忠「看病用心集」、徹心葬送次第集「無縁集」勅伝等を解説されました。