お寺あれこれ 86

歴代の古五条袈裟・古七条袈裟の使い道「軸装の裂地に使用」

先代の衣や袈裟で使い古したものは処分したが、昔の七條だけは捨てきれず、裏生地を直し大切に保管してきた。保存するだけでも修理が必要です。調べると明治期の法衣帳にすでに記載がある。白茶地金襴七條袈裟、紺紋博多五条袈裟、白茶地菊御紋散袈裟、白塩瀬金蓮花散七條袈裟、蜀紅錦七條袈裟などあるものないものもある、どの袈裟がどれなのかわからない。なんとか使えないものか、着てみたが、すべて小さく柄が現代には地味である。以前本山の御忌随喜に着てみたが、私だけが浮いた感じであった、当時の織物職人の心意気がわかり、私的には好みである。コロナ自粛中に物置を整理していると、虫に喰われた軸があり、以前処分するか悩んだものである。この軸をさらに調べると、当寺に由来ものであることが分かり、私が住職引退までに表装修復しなければという気持ちになる。いい機会であるので、表具さんに持ち込み、この古袈裟(七條)を裂に使っていただくことになった。江戸末期から明治期の歴代住職が使かわれたものであり、七條袈裟(織物、刺繍)自体も現代の機械で織ったものではなく、織物職人が時間をかけ織られたものある、私の好みの軸装に仕上がってほしいものである。しかし、それが本紙に調和するかはわからない。本職の職人さんでも優れた色彩感覚をお持ちでないといいものができない。
本来袈裟は、人々から古着を頂き繋ぎ合わせてつくられたものです。昔の麻壊色の如法衣(糞掃衣を思わせる)もいいが、儀式用に作られた金襴もきらびやかでいいものである。寺什物として、何かに利用して今後も残していきたいものです。

お寺あれこれ 85

寺での自粛生活 2 野菜作り 
 今年も孫と夏野菜を色々と作っています。楽しみながら収穫をします。

お寺あれこれ 84

寺での自粛生活のひととき 1

コロナ感染防止による自粛生活で、私も普段できない過去帳の整理や軸の虫干しをしていました。特に以前から気になってました歴代上人や寺の資料の確認や形原松平家藩主の歴史に伝承する資料から、改めて寺と松平家の歴史が伝えられなく風化したものが、あまりにも多くあり、残念でなりません。私も若い時は、何も考えず、虫に喰われた埃まみれの「歴代住持がまとめられた自筆」の八宗要綱等の経典や注釈書や寺の日鑑がありましたが、本堂建築の際に処分しました。せめて研究をなさる学者の方に見て頂いてから、と今になって後悔が残ります。何も知らないということは、恐ろしいものです。
最近、僧侶の派遣業者と思われる方から、電話があり、檀家以外の葬儀をされているか、という問い合わせのである、詳しく内容は聞かず、即座にお断りした。どのような業者の方からもわからず、電話一本で葬儀のことを話すことはできません。しかし個人で、お困りの方からの問い合わせや相談があれば、できれば寺に来て頂いて、お話を聞いています。
墓の相談も同じである。両親・ご先祖や自身ががお入りになる光忠寺境内墓地であるならば、阿弥陀仏に対する信仰があり、ご両親や先祖に対する感謝を持ちお参りし供養していただきたいものです。そうでなければ、いきつくところは墓所の墓場になるか、近年電車の荷物台に置き忘れられた遺骨が多々あるそうです。それと変わらない状況であるならば、置き捨てられた墓所(遺骨)ではないでしょうか。せめて自分が元気な内は、お参りしていただきたいものです。
ここ最近問い合わせやご相談がありましたが、できれば同じ宗派の寺院で探されるか、宗派がなければ、宗派問わずの大きな霊園をすすめしました。(葬儀の導師は葬儀社から紹介された僧侶・住職であるという)
寺へ来て住職と話さなければならない、煩わしさを考えると、メールや電話で自身の要望や答えが得られる、またその後も煩わしい関係も持ちたくない現代人にとっては、利便性や効率性や経済性のみで、葬儀や墓所までが判断されるのである。しかし、私が今まで見てきた限りでは、こんな方は供養も長続きはせず、間に合せの告別式であり、葬儀の意味も深く考えることなく、自身がどこから生まれ、どう生き、どこへ死んでいくのか、自身に問われたことはあるのでしょうか、ご先祖から受け継がれた墓も無縁墓になる方が多いのです。例え寺の永代供養墓に永代供養し納骨されても、供養された人、供養した人、供養の心は、永遠に必要なものです。
新型コロナ感染により、多くの尊い命が失われました、心からお悔やみを申し上げます。新型コロナ感染で亡くなられた方は、臨終にも身内の方が立ち会うこともできず、葬式もできないニュースが報道されましたが、心が痛みます。またニューヨークでは多くのご遺体が冷凍トラックに詰められた状態のことが報道されました。また離島に埋葬所が掘られられ、一度に何十体という遺体が土葬で埋葬されるところが写っていました。ショッキングな映像でした。埋葬される方にも、それぞれに人生があることを思うと、改めて心が痛みます。私にできることはなにもありませんが、本堂での朝のお勤めで、亡くなられた全ての方々にご供養をすることです。南無阿弥陀仏





お寺あれこれ 83

写真の取り込みの方法が分からなく牡丹の写真が今になってしまいました。今年は土壌改良をしましたので、幾分か花が持ち直しました。

お寺あれこれ 82

新型コロナウイルス感染防止とお寺あれこれ状況

新型コロナウイルスが首都圏や大都市ではクラスター感染の兆候が出てきているようです。当山から見える山々にはところどころに桜が咲いているのがわかります。花見という気持ちにもなれず、今は不要不急な外出はひかえなければなりません。
先日、檀信徒の方の葬式があり、幸いに喪主の意向で、住職と親族お二人のみで参列者なしの葬義式でした。ニュースによると、四国で通夜・葬式の参列に行かれ、新型コロナウイルスに参列者数人が感染された、と報道がありました。当山も4月には、数件の法事が入っていますが、親戚は呼ばれず家族のみで執り行われます。檀信徒の皆様が寺に来られる日々が続いています。出来るだけ距離をとり、用事は玄関ですまし帰って頂いています。葬儀や結婚式などの冠婚葬祭には人が集まるのが、つきものですが、当事者や関係者(招待者)であれば、延期や規模の縮小など、なかなか決断することができませんが、非常事態のこの時期は、葬式や法事もできる限り、安全で安心な方法で、対処しなければ大切な人の命を奪うことになりかねません。今日も東京から訪問者があるが不安もございます。

お寺あれこれ 81

新型コロナウイルス感染病拡散防止の為、知恩院や浄土宗の各行事、講座が中止、延期となりました。光忠寺も春の彼岸会法要は、檀信徒の皆様の参詣は中止頂くことになりましたが、彼岸法要は住職のみで執り行います。
三月に入り、心なしが日差しが暖かくなり、境内や墓地の草が伸びはじめ、この時期は草引きと掃除の毎日です。今日は天気も良く、牡丹の花壇にピースモス(土壌改良)と肥料をやり、妻は生ゴミから腐葉土を造り、畑にまき耕しました。久々に気持ちのいい一日でした。

お寺あれこれ 80

寒い時期でも庭や境内には草が生え出し、春の気配を感じる今日この頃です。気が向けば陽当たりをさがし草引きをしています。先月は寺務も少ないものですから、浄土宗が主催する実践講座「選択集」「お寺の会計」の講座を受講できました。また先月の25日、26日の二日間、授戒会が組内の寺院で開催されました。この授戒会は京都教区亀岡、船桑組浄土宗青年会が主催で行われました。当山からも11名の檀信徒の方が参加されました。参加された檀信徒の皆様は、仏の弟子として、戒を受けられ各自それぞれ喜びをかみしめられていました。今は戒名は亡くなられた時に授けられる名前(枕経の時に故人に剃度作法して三帰三意を授与し法名を授けています)のように思われていますが、本来は授戒会に参加(入行)して、浄土宗の戒の意味や生活の仕方を指導してもらい、戒名を授けました。ですから仏教徒としての自覚を持ち生活をする誓いをした人に授けた名前が「戒名(法名)」です。機会があれば生前に授戒会を受けて頂き、お釈迦さまから伝えられたその教えを学び、改めて自分の生活態度や考え方を見直し、仏教徒として、明るく、正しく、仲良く生活をして頂きたいものです。しかし当山では、授戒会や五重相伝ができなく住職として反省するところであります。今年は暖冬ではありますが、今日は一段と寒い日であります。庭には白梅と紅梅が咲き始めました。



お寺あれこれ 79

元旦 お勤め



お寺あれこれ 78

今年もいつのまにか師走となる。午前中は参道の落ち葉を掃き、花壇の草引きをすると時間が経つのは早いもので昼になる。午後からパソコンで寺の資料を作り夕方になる。夜も引き続いて資料作りで今日も一日が過ぎてしまう。早いもので退職をしてから7年が経ち還暦が遠く過ぎ去り古稀が近づいてくる、昔の60代半ばというとおじいさんの仲間入りです。しかし現代では、まだまだ仕事をして生きがいを持ち働かないと生きていけない時代である。幸い私は小寺の住職であり、境内と堂内と動き回ることが多く、健康的にはいいのかもしれません。私も70歳を一つの目途にしていますが、健康を維持し次の代にまかせたいものです。年末の大掃除は今月21日です、檀信徒の皆様のご協力をお願い致します。

 

 

お寺あれこれ 77

先日、京都アンティークフェアにいってきました。骨董市の出店で、多くの人たちが来られる、国際色豊かで、その中に外国からの人たちも多く来られていました。やはり目を引くのは、仏教美術品や仏像である。どこから探して来られるのか、昔は信仰仏として、人々から手をあわせられたものである。廃寺となり、流れたものかわからないが、それが美術品となり売られ買われている。理由はどうあれ、私も仏像や仏画を探し求めている自分に罪悪感を感じながら夢中になっている。書棚に文福茶釜という本があり、それを読むと、まさに今の自分の姿を見ているようです。欲の塊で騙し騙され、私のような単純なものは手に負えない世界です。
しかし、会場はにぎやかで楽しい雰囲気でお祭りに来てるようである、欲しいものを探してもらうのですが、のめり込むとこわいものです。庭も同じで凝りすぎると身を滅ぼします。自分の趣味やすきなものは、ほどほどに楽しみたいものです。今日は孫二人と西山に登る、展望台からの眺望は素晴らしく、今までにないほど山々がよく見える、少し下ったところにベンチがあり、おにぎりを食べ楽しいひと時でした。