お寺あれこれ 10

今日は一日いい天気でした。先日木蓮の花が咲きましたが、もう白色の花びらが茶色になり参道に散りました。つづいて境内にある位牌堂横の山桜が咲きはじめました。2月は逃げ3月は去ると言いますが、この年になると1日があっという間に過ぎます。朝起き掃除、お勤め、一つの用事をすませば昼になり、昼食を食べ、昼から庭や畑を掃除すると夕食になる、テレビを見ているか本を読み何かを考えていると寝る時間である。寺での法事は月に2~3件ぐらいですからほとんどが、この毎日のこの繰り返しです。私はその時その時やる事がたくさんあり、時間が足りないと思っています。しかしわたしのこの記事をお読みになった方はなんと時間があり暇な毎日を過ごしているなと思われるかもしれませんね、一日暇に過ごせば暇である。しかしやる気さえあれば寺の仕事は山ほどある。これを書くきっかけになったのは、今日偶然散歩の途中、中学時代の同級生の知人に会い久しぶりに話すことができました。その内容は世間話がほどんどですが、知人が冗談まじりで「この年になると、あとは死ぬだけやなあ、社会にも役に立つわけでもなし、生きてるだけで、何のために生きてきたんや、死んでしもたほうがましやなあー」と言われたのです。かれは中学時代から反抗的な言葉づかいは、彼の特徴で相変わらずやなあーとその時の印象でした。現在彼は職業をもたれた方で多彩な趣味と才能をもたれた方です。私は以前からいやな言葉がある、それが「あとは死ぬだけやなあ」のこの言葉である。この言葉を聞くと「なんて失礼な事を言われるのか」と思っていました。本人が共感を得ようと自問自答しているのか、それともあんたも後は死ぬだけやなあーという嫌味なのか、ものごとに感謝のない生活をされているのか、そのような言葉を発せられる方は大概そのような顔をされている。私は寺の住職で他の職業の方達よりも死に接する機会が多く、生と死に関することは非常に敏感に反応するのかもしれない。仏教を知識として知っていても、お釈迦様が説かれた諸行無常の説く生老病死や生と死が持つ意味など、生きるとはどういうことなのか、自分はどう生きたのか、等々無い頭で考える・・・しかし現実には、自分の生きざまを他人に話すこともなく自信もないのです。今の私とは恥ずかし限りです。知人の彼の真意はわかりませんが、彼のその言葉からは嫌味な意味合いにとれなかったのです。お互い40年ほど違う世界で働き生活をしてきたことや若い頃の懐かしい思いがあり、言葉にはできない其々の思いからなのか、彼の言葉「あとは死ぬだけやなあ」が「お互い年取ったなあー残された人生ぼちぼち締めくくりを考えな、あかんなー」と私にはそう感じ取れました。3人それぞれに共通することは以前山が好きで、一人は現役の山岳会で月に二回は山に登っておられる、私は近くの山を年2回ぐらいかなあ、今日の宿題を与えてくれた知人の彼は「山はやめた」と言っているがどうもそうでもなさそうである。ゴールデンウイーク期間中に近くの愛宕山へ登る予定を三人で相談をして別れる。彼が言った「あとは死ぬだけやなあ」とは、裏返せば残った命をどう生きるのか、どうこの世にけりをつけ死ぬのか、ということである。長生きするのが良い人生でもなく、短い人生が良くない人生でもないわけです。この世を自分がどう生きたかということである。思い残すこと無く安心して死ぬことである。『浄土に生き往くことです。』若い人には若い人の希望と行動力があり、老人には老人の力があり智慧と経験とねばりがある。年をとると体が動かない分何かと口うるさくなるが、この世に何かをお返しをして、眼に見えないものや自然の恵みやすべてのものに感謝して残った人生を歩みたいものです。

お寺あれこれ 9

気づいたこと

今日は、檀家さんのお葬式やその他法要で、山門横の駐車場から車を出すことがありました。お参りから帰ってくると、妻がお若い奥様が血相を変え、衣を着た人に私の子供が引かれそうになったのに、そのまま車を発信して出て行ったことに、憤慨され怒り心頭で、玄関まで怒鳴りこんで来られたということです。妻は事情が分からずただただ謝ることしかできなかったとのことです。私も思い出してみますと、初七日のお勤めに出かける際に、駐車場からバックで車を出す際に、いつものようにバックで車を出し山門前に車を移動していたら、一人の女性が私の方をじっと見ていらっしゃるので、周囲に子供がいるのでは、と思いもう一度車を前に戻し、周囲を見渡すと小さい自転車に乗った3歳ぐらいの幼い女の子が、運転席後方右側に確認できたので、その子がお母さんの方へ行き、私の車から離れたので、安全と思い、そのまま初七日のお勤めに出かけました。その後寺に帰ってくるまで、この事は私自身はわからなかったわけです。交通事故にはいつも注意をしていた私が「幼い子供を引いていたら」と思う恐怖心と、もう一つは「自分は絶対にそんな不注意な運転はしていない」という思いの慢心がありました。しかし私にもかわいい孫がいるわけです。当山の境内から道路に出て孫と散歩をする際は、絶対に孫の手を離さす握りしめて、孫を見てるわけです。私は私で、幼い子が、なぜ自転車に乗らし交通量が多いところで母親が、子供から離れて見ておられたので、不思議に思ったわけです。危ないのであれば、すぐに子供に走っていき危険から子供を守るのに、そういう様子もなく、ただ私の顔を見ておられたので、私もその方(母親)を見ていましたが、「何らかの意思表示である」とその時私も感じていました。私が子供さんを確認するまでに、現実に危険な状況を作ったのであれば(バックモニターで確認している)、ご心配をかけた事になります。私も還暦を過ぎ、運転に必要な反射神経や注意力や運転技術が低下したことを自覚することが、何より今の私に必要な事であります。その事を、その若いお母さんが教えて下さったように思います。私には危険運転をした認識はございませんが、事実であればご心配とご迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します。何よりも子供さんに怪我がなかったことが幸いです。有難い事です。阿弥陀さまの変わりに、「その若いお母さんが私に注意をして下さったこと」と思います。何よりも自分自身で、危険な状況であったことがいまでも認識できません。なによりも怖いことです。この事を肝に銘じてハンドルを握らなければ、いずれ交通事故の加害者や被害者になってしまいます。若い頃から運転が好きで、これから「妻と車で旅行でも」と考えていた矢先の事です。まだまだ車を利用した寺での勤めと生活をしなければなりません。でもいつかは時期(運転する自信がなくなれば)がくれば運転免許を返却することとなるでしょう。