お寺あれこれ 54

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梅満開  お参りと孫のこもり
今日は遠方へ引っ越される檀信徒の方があり、仏壇の発遺(精念抜)のお勤めに行きました。その方から同じ浄土宗のお寺さんを紹介してほしいというお願いがあり、知り合いのお寺の住職さんにお願いしたところ心よく引き受けて頂きましたので、その方も喜んでおられました。私も有難い事です。昨今新聞やテレビなどで、終活に関係する墓じまいや葬式や墓の特集が多いですが、その影響なのか当寺の檀信徒の方も入って来られる方も出られる方もここ最近多くなってきました。今は核家族化や少子高齢化が進み、また効率性やが利便性だけで、物事を判断し命の大切さや死の尊厳を考える上で重要な場であるはずの葬式が軽視されています。また安易に墓を求められた結果、家族や親族でのトラブルが起こり、結果的に改葬された方もおられます。ネットや電話一本かければ「僧侶」が派遣されます。簡単に葬式・中陰・年回法要・墓まで依頼ができる時代です。そこには住職や僧侶と供養を依頼される人との人間関係がなく、その場限りの関係です。私にはなにか割り切れないものを感じるのです。人生観や死生観を考える事もなく宗教性が薄れた形骸化した葬式が増えています。社会の変容であれば当然かもしれませんね。考えてみると、寺の檀信徒であれば、葬式や年回法要を頼めば、その住職がどのような人間であっても檀信徒である限り住職を選べないわけです。また逆に住職も寺の檀信徒であれば「どのような人間であっても」檀信徒の関係性を続けなければなりません。ある意味そう考えるとアマゾンの「派遣僧侶」は、供養を依頼される人にとっては、煩わしい人間関係はなくその日だけの供養ではあるが、一応その方の考えの「供養」という目的が果たせるわけです。供養や僧侶は商品ではないけれど、現代に合った新しい寺制度を考えることは早急に必要ではないかと思います。
江戸時代からの寺檀制度という強い慣習で寺の財政基盤が現在まで支えられてきましたが、その制度も崩壊しつつあるのが現状です。こうした状況に陥った一つは私たち住職・僧侶も寺檀制度だけに頼ってきたことも大きな要因です。しかしたまには今までの自分を振り返りご先祖に手を合わして頂きたいものです。当山の境内にはいま梅が満開です。人間は苦しみ悩み愚痴を言っていますが、寒中力いっぱい花を咲かせている梅花を見ていると心が和みます。今日は孫とだんごを食べ花見を楽しんでいます。ご近所の皆さん山門から入って見て下さい。

 

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