お寺あれこれ 14

靖国神社に思う 4
靖国神社には戊申戦争以降の国事に殉じた戦没者がお祀りされていますが、靖国の神霊になるには天皇の裁可が必要でした。太平洋戦争で一挙に戦没者が増えましたが、靖国に祀られるまでは人霊で英霊でした。そのため実際には靖国に祀られる以前の葬儀はそれぞれの死者の家の宗教によって行われました。当時の神社での公葬は禁止されていました。日本兵が戦友と別れる際に「靖国で会おう」と誓ったことから靖国神社は日本兵の心のよりどころされましたが、実際のところ父母や兄弟親族のもとで、故郷の寺や自宅で葬儀が行われました。私だけの考えかもしれませんが、明治維新は、世界的にも激動の中日本が荒波の中に巻き込まれ、新政府側も幕府側も新しい日本をつくっていく過程で多くの尊い命が失われました。そうい意味で幕府側(佐幕派)の戦死者(4707名 会津藩 妻娘194名)が靖国に祀られてないのが、どうしても私自身の心では許されないところです。もう一点はA級戦犯になられた方が靖国に合祀されたことは、戦後の事ですから国の管理するところではなく一つの宗教法人靖国神社が判断されたことです。日本国憲法で信教の自由があり、国民一人一人が自身の考えで「A級戦犯合祀」を考えお参りしたらいいことです。信教の自由の中で一つの宗教法人の考えで決断された事に、何ら問題はないはずです。にもかかわらず戦前からの慣習で首相や閣僚が「戦没者慰霊」として靖国神社を国の慰霊施設の中心的施設として参拝することが昔の国家神道がいまも生き続けているように思われています。日本の植民地統治のあった韓国や戦争をした中国だげでなく2年前には過去に戦争はしたが同盟国の米国までが「失望した」と声明を出しました。私たち日本国内にも靖国神社の戦前の国家神道がいまも生き続けているように感じる方もおられるでしょう。中国や韓国が外交問題にするから参拝を控えるとか海外の顔色を見て参拝の時期を変える玉虫色では対等な外交とは思いません。今日もニュースで多くの国会議員が靖国神社に参拝される報道がありましたが、政治家の信条と信念をもって参拝をされた事と思いますが、国安かれと平和を誓い非戦の思い「旧国家神道の過ち」を忘れないで下さい。私が本山で奉職した間もない頃に、岸信介元総理が大殿(本堂)に一人静かにお参りをされていたのを今も強く記憶に残っています。なぜ一人なのか一国の総理までされた方が広い本堂の外陣中央に正座して静かにお参りをされた姿が、今でも目に浮かんできます。(警護する者もいない)本山も担当者がいない突然のお参りであったように思います。1947年(施行)に日本国憲法では第20条において、○信仰の自由を保障し、政教分離原則を挙げています。信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。○何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。○国及びその期間は宗教教育その他如何なる宗教活動もしてはならない。首相の参拝については裁判で争われていますが、各裁判所の判決は参拝の際の玉串料などの公費での支出についてのみ合憲・違憲の判断をしており、参拝自体が違憲であるという判決はないのです。『ことなった宗教・信条を持つ者が、その違いを認め合い、相互を尊重しながら、その存立を互いに保障し合う立場でもあります。ー略ー信教の自由とは、如何なる宗教を信じることも、それが人倫に悖るものでない限り、国家が害してはならないという思想であると同時に、信じない自由をも保障する思想です。それが国家によって保障されるためには、国民相互の間で守り合う思想が働かなればなりません。ー略ーあらゆる信仰者と不信心者が連帯したとき、未来は開けます』と大法輪カルチャー講座「幕末維新と仏教」奈倉哲三氏が総括されています。戦後70年を機に日本における現在の靖国神社の政治的位置付けの統一見解を出し、私自身は仏教の「怨親平等」の崇高な考えで「すべての敵味方を超えた全戦没者」を祈る国の慰霊施設を建てて頂きたいと思います。靖国神社に思うー終

 

お寺あれこれ 13

靖国神社に思う 3
3年前島根県隠岐の島西郷町へ親戚のお葬式に弔問したとき、時間があるので西郷町を散歩していますと、小学校付近に高台の墓地がありその一角に十字架の墓碑がありました。説明板を読むと「日本海海戦 露軍軍人の墓」と書かれたので、日本海海戦の後この隠岐の島に漂流した8名のロシア兵の遺体を島民が手厚く埋葬供養したそうです。その後露軍の墓を老人クラブの皆様で整備をされたことを読み、手を合わせた事を思い出しました。この隠岐の島は、明治元年には新政府や藩ではなく独立した島民自治の激しい廃仏毀釈があり、寺院や仏像が破棄され寺の領地まで奪い取り農民に安い価格か無償で分け与えたところです。島民自治の幹部である神道家や国学者の指導する宗教闘争と土地闘争でもありました。話はもどります。露軍軍人墓地を供養した島民は「霊界に国境はなからん」と明治時代の厳しい統制下のなかでも敵国の軍人に敬意を払い、埋葬供養したことは、人道としてすばらしい行いで日本人の誇りです。靖国神社の前身である招魂祭は新政府側の魂だけしか祀らない極めて偏った考えで旧幕府側の魂をお祀りしなかったのです。『味方の魂だけを招き祀るというこの祭祀は、それまでの神道祭祀にも決してなかった日本史上初の、エゴイズムむきだしの権力的祭祀でした。神の国日本に一命を捧げた者を美化したため、その対極に、3倍近い同法が「賊徒」として殺戮されていくのです。戊辰戦争で戦死すれば「王事に身を尽くし」た者として招魂するから、と「官軍」兵を煽ったことを思うと、これがやがて「靖国」の思想となり、戦争遂行体制を支えるものとなっていったのだ、と思わざるを得ません。』とまた『維新変革の主導権を握った政治グループと彼らを押し上げていった尊王思想家たちは、この天照大神こそが記紀神話中の皇祖神なのだと喧伝し、天皇を神と仰ぐ特異な思想を国民一般にまで押し広げたのです。ー略ーキリスト教を基盤とする欧米列強に負けない強国をつくるための国民精神の統一が、頂点の皇室祭祀と天皇家の信仰生活の改変をも含めて図られ、天皇を一気に神にまで引き上げていったのです。天皇を神としたことが日本史にとって大きな不幸となったのは、この思想が極めて特異な排外主義的なナショナリズム(民族主義)だったということです。欧米列強すべての国で、国民の多くがキリスト教を信仰しているという事実は、反面、世界の宗教としてのキリスト教と、それぞれの国家のナショナリズムはまったく別ものである、、ということを意味しているのです。』と大法輪(幕末維新と仏教)で奈倉哲三(鶴見学園女子大学文学部教授)氏が言われています。明治維新という変革期に幕藩体制が崩壊し明治新政府が近代国家をつくるため急速に作り上げた神道国家を中心に軍国主義者たちが欧米列強国に負けない国をつくろうとしたことを知らなければなりません。「靖国神社」は「夢も希望もある若者(兵士)や一般国民までが戦争で無残に亡くなられた歴史の事実を」認識しなければならない。そこに神霊としてお祀りしてあることはなんら問題はなくお参りしたいと思いますが、ここのところをしっかりつかんでお参りしないと「戦争は繰り返されます」御魂の供養にならないと思います。戦後日本を占領したGHQは1945年靖国神社を焼き払いドックレース場をつくる計画をしましたが、賛否両論が巻き起こり収拾がつかなく、ローマ法王教王庁代表のブルーノ・ビッテル神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン神父に意見を求めた。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国のために死んだ戦死者に対して敬意を払う義務があると言える。戦勝国、敗戦国を問わず、平等の真理でなければならない。」とし靖国神社を焼却することは連合国の占領政策に相いれない犯罪行為である。」とまで言ったという。そして次の言葉で締めくくった。靖国神社が国家神道の中枢で間違った国家主義の根源であると言うのなら排すべきは国家神道という制度で靖国神社ではない。我々は信教の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと 国家のために死んだ者は、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言するものである。この進言によって靖国神社は焼き払いを免れたという。バーン神父もビッテル神父も同趣旨のことを進言された。という逸話が語られています。続く

お寺あれこれ 12

靖国神社に思う 2
政府軍側だけの戦死者を招魂した靖国神社(東京招魂社)の建立場所は、「旧幕府軍の歩兵駐屯所です。つまり旧敵地です。国事に殉難する覚悟で戦いながら、同士を失って勝ち残った薩長兵や、殉難者の犠牲で権力が樹立できたと考える新政府官僚の偏った考えです。かつての敵地に魂を招くことこそ、勝利を確信し、殉難者の無念を晴らすにもふさわしいと考えたのです。-略―もしも仏教怨親平等思想の考えで供養するならば、供養の対象となった1万余もの魂が排除され、彼らの命を奪った側にいた魂だけ神となったわけです。その選び分けの思考基準は、招魂の際の祝辞に端的に表れています。天皇の大御詔に困りて軍務管知事宮嘉彰白さく。昨年の伏見の役より始めて今年函館の役に至るまで、国々の戦場に立ちて、海ゆかば水芙付屍、額には矢に立つとも背には、と言立て・・・3588名の魂を招き降ろした祭儀の最も中心的な思想がここに凝縮しています。万葉集の「海ゆかば水漬屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺こそ死なめ、顧みはせじ」下の句をさらに強烈な方向へ転換させています。海へ行こうとも山へ行こうとも天皇のためには命を捨てる。敵と相対すれば必ず正面から戦い、背を向けずに死ぬまで戦う。こう誓って戦死した「魂」を招いたというのだ、というのです。この招魂祭から70年後、大伴家持の歌に信時潔が曲を付けた「海ゆかば」が世にでます。」《大法輪カルチャー明治維新と仏教》から抜粋ー武士道を捻じ曲げた軍国主義者と一部の政治家によって多くの若い兵士や国民が亡くなられたことは絶対に忘れてはいけないことです。日清戦争、日ロ戦争、台湾・韓国植民地統治、満州事変、太平洋戦争と突き進み、現在の靖国神社には国家のためにお亡くなられた方々が246万6千余の神霊として祀られています。東京招魂社は一般神社とは異なる存在で数々の不安定要素があるため正規の神社に改めようとする軍部の要請で、明治天皇の裁可を得て、明治12年(1879)6月1日に「靖国神社」と改名し別格官幣社となり明治政府から国家(内務省)が管理し、大日本帝国陸軍と同海軍が祭事を統括しました。戦後は信教の自由や人権の保障がある日本国憲法「民主主義国家」となり、国家の管理から東京知事の承認で靖国神社は単立宗教法人となりました。(神社本庁の包括団体ではない)私は一度も靖国神社へお参りしていない。戦場に行かれ無事帰還された兵士経験者が必ず「絶対に戦争を起こしてはならない」言われる、このことば「非戦」に尽きるのである。しかし明治維新という政体変革のところ250年続いた幕藩体制責められる側と新政府側責める側もともに外国の力に頼るのをよしとしない有力な骨のある指導者がいました。日本国を思う先人の努力があってこそ日本が植民地にもならず、近代国家にもなりました。今の私たちは民主主義国家で当たり前のようになに不自由なく生きていますが、この自由を与えて下さった先人の努力と心を忘れてはならない。政治にも自分の考えを持ち選挙に投票に行く責任があります。政治家にも責任があるが、国民の政治に対する意識の低さが国家をだめにしてる。大法輪「仏教の眼・リレーコラム」仏教から発言。→『紀州高野山奥ノ院には文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で戦死した者を供養するために島津義弘が建立した「高麗陣敵味方碑」がある。敵味方の差別なく死者はすべて絶対平等であるという慈悲心にもとづくものである。こうした「怨親平等」は仏教の崇高な思想である。また仏教で三界万霊を供養するのもどうようである。自国の戦没者だけに限らず、かつての敵味方を超えて全戦没者をー民間人まで手厚く合祀するメモリアルが、わが国でも世界に先駆けてできないものか』とすでに12年前に真言宗智山派管長の宮坂宥勝(名古屋大学名誉教授)師が発言されています。私もこの考えに賛同する考えです。靖国神社は明治から先の大戦までの多くの戦没者が神霊としてお祀りをされていることを私たち国民が歴史を知るうえで必要です。現在の靖国神社は一宗教法人ですから、国の慰霊行事に使うのは色々な問題があるので、世界で唯一の被爆国である日本が戦後70年のこの年に(平和を祈る施設)をつくる意思を表明できないものか。明治維新から70年が終戦(昭和20年)です。それから今年が70年である。なにか不思議な年回りを感じます。続く

お寺あれこれ 11

靖国神社に思う 1

ここ何年も前から首相の靖国参拝が問題になっている。靖国神社とは今の私たち日本人にとってどのような神社なのか、隣国の中国や韓国から第二次世界大戦の東京裁判でA級戦犯になられた方が合祀された事への批判 抗議がある。また領土問題や慰安婦問題に絡ませて首相の靖国参拝を外交問題に発展させている。終戦から70年が過ぎたが、過去に日本が侵略戦争を行った事を考えると当然かもしれない。しかし日本だけが首相や政治家が靖国神社へ参拝をすると批判がいくどとなく繰り返されるのはなぜなのか、今の日本は平和である。茲にいたるまで多くの国難に立ち向かわれた先人たちの血のにじむ心「国を憂う」とお国のために命を懸け亡くなられた戦没者の犠牲が土台となり、今の平和な日本社会がある。国事に殉じた死者の霊にお参りするのは当然な事である。首相や国会議員の参拝が過去の歴史を変え軍国主義肯定に通じるというのはあまりにも短絡的な考えである。中国や韓国の非難抗議は内政干渉である。戦後の靖国神社は一つの宗教法人でありメモリアルパークではないが、戦没者に手を合わせお参りされる方は「非戦の思いで平和を願いお参りされている」特定の宗教を超えている思いがします。他の国ではメモリアル・パーク(共同墓地)へその国の最高責任者である首相や大統領が参拝するのは当然の事として行われている。いままで私は過去の歴史も靖国神社の由緒も分からず、マスコミが取り上げる靖国に関するニュースや新聞の記事を腹立たしい思いで読んいた。のど元を過ぎれば後は忘れるのか世の常である。 マスコミも他国の非難抗議があるときだけ報道するが、深く掘り起こし意見を述べないので、尻切れトンボの中途半端なままで終わってしまう、日本も平和過ぎて平和に無関心な国民が多い。アメリカとの安保条約があるが、自分たちの国は国民自ら守る意思をもたなければ「自由な国日本」は守れないのです。世界の国々と平和な国際社会を造りすべての国の人々と共存共栄をはからなければならない時代である。寺の住職は毎朝お勤めの際に「怨親平等」や「三界万霊」と過去の戦没者を供養回向をしている。怨親平等や三界万霊とは、過去の戦争で亡くなくなられた敵味方くべつなく死者をすべて平等に供養をする思想である。お釈迦さまの説かれた「非暴力主義」の教えである。私自身他国から言われる事なく一人の日本国民として靖国神社を調べ考えたいと思います。靖国神社の創建は、明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は歴史的大改革(明治維新)にあり、250年続いた鎖国政策をとっていた幕府は厳しく外国との交流を制限していたが 西欧諸国やアメリカがアジア諸国を植民地として進出し、日本にも開国要求を強め開国派と鎖国派の対立が激しくなり、国内は大きな混乱に陥り、 徳川幕府はそうした危機的状況を乗り切ることが出来ず、政権を天皇に返上し日本は新たに天皇を中心とする近代国家として明治政府が歩み出しました。しかしその陰には、戊申戦争や佐賀の乱や西南戦争の不幸な戦いで多くの戦死者を出しました。国家建設のために尽力された多くの同士の尊い命を慰霊顕彰するために、大村益太郎(日本陸軍の創始者)が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて明治2年に東京招魂社が創建された。その後明治12年(1869)に「靖国神社」に改名し現在に至っています。ここで私が気になることは、明治維新にいたるまで鳥羽伏見の戦いから函館の五稜郭にいたるまでの内戦で、新政府側で3588名の戦死者があり、この政府側だけの戦死者が招魂祭に招かれて靖国神社に神霊として祭られているが、旧幕府側の8628名と新政府の招かれざる魂が1369名であり、約1万余の魂が排除されたことは、仏教の怨親平等思想で考えるとどうしても納得いかないところです。当時の尊王攘夷とは現代日本でいうと極左から右翼まで反対しない民主主義と同じような誰からも受け入れられる一般的な理念だったようです。極端にいえば正義とか平和と同じようなものです。佐幕派も倒幕派もともに尊王攘夷だったわけです。歴史的に倒幕派が勝ったので自分たちこそが尊王攘夷だったと倒幕派が主張しました。内戦の激化が進むと招魂祭を執り行い、官軍兵の指揮を高め、先に斃れた同士の魂を神に祈り、その前で自らも死を誓う「崇高な」儀式として、招魂祭は一層その必要性をましました。続く(参考 大法輪・カルチャー講座 幕末維新と仏教)2011.11

 

お寺あれこれ 10

今日は一日いい天気でした。先日木蓮の花が咲きましたが、もう白色の花びらが茶色になり参道に散りました。つづいて境内にある位牌堂横の山桜が咲きはじめました。2月は逃げ3月は去ると言いますが、この年になると1日があっという間に過ぎます。朝起き掃除、お勤め、一つの用事をすませば昼になり、昼食を食べ、昼から庭や畑を掃除すると夕食になる、テレビを見ているか本を読み何かを考えていると寝る時間である。寺での法事は月に2~3件ぐらいですからほとんどが、この毎日のこの繰り返しです。私はその時その時やる事がたくさんあり、時間が足りないと思っています。しかしわたしのこの記事をお読みになった方はなんと時間があり暇な毎日を過ごしているなと思われるかもしれませんね、一日暇に過ごせば暇である。しかしやる気さえあれば寺の仕事は山ほどある。これを書くきっかけになったのは、今日偶然散歩の途中、中学時代の同級生の知人に会い久しぶりに話すことができました。その内容は世間話がほどんどですが、知人が冗談まじりで「この年になると、あとは死ぬだけやなあ、社会にも役に立つわけでもなし、生きてるだけで、何のために生きてきたんや、死んでしもたほうがましやなあー」と言われたのです。かれは中学時代から反抗的な言葉づかいは、彼の特徴で相変わらずやなあーとその時の印象でした。現在彼は職業をもたれた方で多彩な趣味と才能をもたれた方です。私は以前からいやな言葉がある、それが「あとは死ぬだけやなあ」のこの言葉である。この言葉を聞くと「なんて失礼な事を言われるのか」と思っていました。本人が共感を得ようと自問自答しているのか、それともあんたも後は死ぬだけやなあーという嫌味なのか、ものごとに感謝のない生活をされているのか、そのような言葉を発せられる方は大概そのような顔をされている。私は寺の住職で他の職業の方達よりも死に接する機会が多く、生と死に関することは非常に敏感に反応するのかもしれない。仏教を知識として知っていても、お釈迦様が説かれた諸行無常の説く生老病死や生と死が持つ意味など、生きるとはどういうことなのか、自分はどう生きたのか、等々無い頭で考える・・・しかし現実には、自分の生きざまを他人に話すこともなく自信もないのです。今の私とは恥ずかし限りです。知人の彼の真意はわかりませんが、彼のその言葉からは嫌味な意味合いにとれなかったのです。お互い40年ほど違う世界で働き生活をしてきたことや若い頃の懐かしい思いがあり、言葉にはできない其々の思いからなのか、彼の言葉「あとは死ぬだけやなあ」が「お互い年取ったなあー残された人生ぼちぼち締めくくりを考えな、あかんなー」と私にはそう感じ取れました。3人それぞれに共通することは以前山が好きで、一人は現役の山岳会で月に二回は山に登っておられる、私は近くの山を年2回ぐらいかなあ、今日の宿題を与えてくれた知人の彼は「山はやめた」と言っているがどうもそうでもなさそうである。ゴールデンウイーク期間中に近くの愛宕山へ登る予定を三人で相談をして別れる。彼が言った「あとは死ぬだけやなあ」とは、裏返せば残った命をどう生きるのか、どうこの世にけりをつけ死ぬのか、ということである。長生きするのが良い人生でもなく、短い人生が良くない人生でもないわけです。この世を自分がどう生きたかということである。思い残すこと無く安心して死ぬことである。『浄土に生き往くことです。』若い人には若い人の希望と行動力があり、老人には老人の力があり智慧と経験とねばりがある。年をとると体が動かない分何かと口うるさくなるが、この世に何かをお返しをして、眼に見えないものや自然の恵みやすべてのものに感謝して残った人生を歩みたいものです。

お寺あれこれ 9

気づいたこと

今日は、檀家さんのお葬式やその他法要で、山門横の駐車場から車を出すことがありました。お参りから帰ってくると、妻がお若い奥様が血相を変え、衣を着た人に私の子供が引かれそうになったのに、そのまま車を発信して出て行ったことに、憤慨され怒り心頭で、玄関まで怒鳴りこんで来られたということです。妻は事情が分からずただただ謝ることしかできなかったとのことです。私も思い出してみますと、初七日のお勤めに出かける際に、駐車場からバックで車を出す際に、いつものようにバックで車を出し山門前に車を移動していたら、一人の女性が私の方をじっと見ていらっしゃるので、周囲に子供がいるのでは、と思いもう一度車を前に戻し、周囲を見渡すと小さい自転車に乗った3歳ぐらいの幼い女の子が、運転席後方右側に確認できたので、その子がお母さんの方へ行き、私の車から離れたので、安全と思い、そのまま初七日のお勤めに出かけました。その後寺に帰ってくるまで、この事は私自身はわからなかったわけです。交通事故にはいつも注意をしていた私が「幼い子供を引いていたら」と思う恐怖心と、もう一つは「自分は絶対にそんな不注意な運転はしていない」という思いの慢心がありました。しかし私にもかわいい孫がいるわけです。当山の境内から道路に出て孫と散歩をする際は、絶対に孫の手を離さす握りしめて、孫を見てるわけです。私は私で、幼い子が、なぜ自転車に乗らし交通量が多いところで母親が、子供から離れて見ておられたので、不思議に思ったわけです。危ないのであれば、すぐに子供に走っていき危険から子供を守るのに、そういう様子もなく、ただ私の顔を見ておられたので、私もその方(母親)を見ていましたが、「何らかの意思表示である」とその時私も感じていました。私が子供さんを確認するまでに、現実に危険な状況を作ったのであれば(バックモニターで確認している)、ご心配をかけた事になります。私も還暦を過ぎ、運転に必要な反射神経や注意力や運転技術が低下したことを自覚することが、何より今の私に必要な事であります。その事を、その若いお母さんが教えて下さったように思います。私には危険運転をした認識はございませんが、事実であればご心配とご迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します。何よりも子供さんに怪我がなかったことが幸いです。有難い事です。阿弥陀さまの変わりに、「その若いお母さんが私に注意をして下さったこと」と思います。何よりも自分自身で、危険な状況であったことがいまでも認識できません。なによりも怖いことです。この事を肝に銘じてハンドルを握らなければ、いずれ交通事故の加害者や被害者になってしまいます。若い頃から運転が好きで、これから「妻と車で旅行でも」と考えていた矢先の事です。まだまだ車を利用した寺での勤めと生活をしなければなりません。でもいつかは時期(運転する自信がなくなれば)がくれば運転免許を返却することとなるでしょう。

 

お寺あれこれ 8

庭の手入れ
この時期は、庭の苔が野鳥によって、めちゃくちゃににされます。野鳥も苔の中にいる昆虫を探し食べているようです。そのため苔一面を突っつき修正ができなくなるまで細かく掘り起こし、苔を再び植えることができません。新しく苔を買わなくては自然には生える環境ではないのです。ほんとに困っています。農家の方が田や畑の野菜を動物に食べれることを聞きますが、大切にしているものを壊されたり食べらる気持ちが少しわかります。牡丹には2月はじめに寒肥をしましたが、庭の木にもバークと肥をやらなければと思っています。わたしにとって庭での作業や考えごとが楽しみの一つです。歴史ある庭や有名な方が作庭された庭は興味があり、たまに見に行きますが、やはり当山の庭を見ているのがこころが安らぎ楽しむことができます。山門の中の松と中庭の松が葉ふるい病(昆虫が運ぶ細菌)かも知れません。今年枯れるかも、と心配してします。当山には7本あり6本は私住職が剪定をして、大きな松1本だけ造園業者に剪定をお願いしています。芽摘みや古葉をとるのが大変な作業です。おそらくあと2、3年ぐらいです。庭を維持管理することは手間(時間)と経費がかかります。あとのことを考えた庭を造っておけばと後悔が残ります。しかしイングリッシュガーデンも大変な情熱と手間がかかる様子がテレビなどで放送されますが、日本以上に苦労をされるみたいですね。むしろ自分の手で造る意味では日本人以上の個性豊かなものを感じます。私たち日本人とヨーロッパの人々では美的感覚が違うのは当然ですが、美しいものを感じるのは、その庭を造る方のみえない日々の苦労の積み重ねです。いまはしだれ紅梅が咲き見頃です。楽しんでいます。

お寺あれこれ 7

寄付(募財)の石板

先日、あるお寺の総代さんが突然当山に来られました。要件は「来られた総代さんの寺の本堂再建に当たり、本堂が完成したので寄付された檀家の名前と寄付額をどのようにされているか」教えて頂きたいということである。先ずは菩提寺の住職と相談されましたか、とお伺いすると相談は後でするそうである。(住職から私住職に相談があるのが一つの筋である。)しかしわざわざ来られているので私の考えをお話しました。約25年前に当山光忠寺が本堂諸堂の再建前に、私が地元ではなく教区内の数ヶ寺をお伺いしたある寺に、新築された本堂の横に「大きな石板に、寄付者の名前と金額が刻印されていました。」住職の考えか、総代の考えか、寺としての考えなのか、その時は私も違和感というか少し考えが違うのではないか、と思いました。というのはある意味では金額を表に出すことで、様々な問題があります。せっかく新築の本堂ができても、全体の景観からみると、その石板が目立ちすぎるのと新築された本堂と庭が台無しである。他に方法がなかったのか、募財(寄付)は布施とは意味合いが違うかもしれないが、根底にあるのは「檀家の気持ちである。」布施行である。他人に言うことでもない。寺の募財台帳に記載しとけばいい事である。当山も私住職の考えを総代に伝え「今現在は本堂にも、書院にも表には書いていない。」ということを訪ねて来られたその総代さんに伝えました。その地域や寺の考えで様々な考え方があることを分かって頂いて、その総代さんは帰っていかれました。これとは違いますが、昔から地元で、桜と紅葉の美しい神社に、いつも楽しみにお参りをさせて頂いていましたが、同じようにとてつもない大きな寄付者の名前と金額が書かれた石板が設置されました。また新しい灯篭も狭い参道に立ち並び、今まで山の借景に溶け込んだ神社の檜皮葺本殿が見えた、素晴らしい神社の景観が台無しです。残念です。私も経験がありますが、寺や神社が本堂や諸堂など大きな事業をするときは、色々な企業や会社や人間が寄ってきます。世間を知らない私住職(僧侶)などは、「赤子の手をひねる」ように簡単に騙されます。この現実の社会には身近なところに悪い人がいる事を知ったことです。貴重な経験をさせていただきました。話はそれましたが、この寄付された方々の気持ちを「十分考え」名前や金額をどうするかは寺と住職が判断することです。本筋の意味がずれ、物事が前に進むことが多々あります。知恩院の大殿(御影堂)が修復されているが、大殿が全国の浄土宗檀信徒の募財で修復されているが、総工事費の40%が檀信徒の募財で、あとの60%は文化財の補助金である。(国民の税金である)檀信徒以外の国民の税金が使われていることはあまり知られていないと思うが、私たち住職も忘れてはならないと思います。(檀家を乗せたバスや宗門学校のバスが大殿の横や前まで多く乗り入れされるため、多くの樹木が弱り無残な姿になっています。(昔から一部の住職の要望でバスや自動車が本堂前まで乗り入れられる。)建物だけ修復すれば完成ではなく是非境内も文化財に合う庭や境内を管理してほしいものです。特別風致地区ですから、木の枝を一本切るのも府の文化財の許可がいるところです。木を切れば必ず植栽をしなければなりません。この特別風致地区は建物の高さや色また自然の樹木までが規制を受ける地区です。知恩院も「大殿」だけを修復することではなく、予算を作り昔の庭や境内を復元できる専門の職員や執事が必要です。そういうことに興味を持つ人材はいないのが現状です。無理なことですね。境内の植栽とバスや自動車の乗り入れの規制を考えて頂きたいものです。今後も周囲の景観や庭も合わせた「知恩院の本堂」が修復されることを切に願いたいものです。また亀岡にも、記念樹で多くの樹木が寄付され植えられているが、あわれな枯れた桜の木が保津小橋近くにある。かわいそうなものである。根本の土壌改良や肥料をあたえれば、枝の腐食が原因なら悪いところは切り、樹木専用の防腐剤を塗れば枝は元気になり、新しい芽が吹くのです。良くなるのにもったいないことである。管理者がいないのか植えられた方なのか?花や樹木も大切にして頂きたいものです。

お寺あれこれ 6

戦争に思う

昔の写真を整理してますと私の父(老僧)のアルバムには戦争当時の軍服をきた父の写真があり、陸軍の集合写真や戦友とのひと時を楽しく過ごす写真があります。また若い父が軍刀を腰にさし母(祖母)との二人の出兵時の写真を見てますと、当時の大日本帝国憲法もと軍政権による社会全体を統制下におき学校教育や宗教や国民すべてを弾圧し戦争に突き進んでいったことがよくわかります。写真の横には、戦友に投げかける一言が書かれ当時の父の思いが伝わってきます。実際に父から戦争の話しはほとんど聞いたことがなく、祖母から聞いたことか親戚から聞いた事か、?私の記憶に残っているのは、昭和20年終戦間際に、父が都城の飛行場から自ら戦闘機(隼)に乗り敦賀の飛行場まで帰り、当山先住の義理父である西岡孝道の葬儀(4月)をして終戦をむかえた、という事だけです。父も戦争の事は私に話すことはなく、詳しい事はほとんどわかりません。戦時下における徴兵制度で、多くの少年や青年がどんな気持ちで、天皇陛下の為、日本のために戦場に行かれたのでしょうか、このアルバムには、戦友や父の写真には悲しい表情の顔はなく目は輝き、笑顔で写る戦友の写真が多くありますが、一枚の写真の横には、新聞の戦死報告の切り抜きがありました。若く希望に満ちた人生を送るはずであったのに、戦争とは不条理で残酷そのものです。第二次世界大戦では、敵味方の尊い多くの兵士や民間人が亡くなられました。仏教と戦争は相反するもので、仏教の不殺生戒は仏教徒のもっとも大切な教えであります。しかし当時は、寺の住職も、学校の先生も日本国民の男子である限り戦場に駆り出されたのです。私には父や当時の仏教会を批判することはできません。なぜなら自分も同じように「戦争反対を言わず国家の方針に従う」からです。村の心優しい和尚さんが、「従軍僧として、敵国の兵士だけではなく、民家に紛れ込んだ兵士を探すのにその家族を殺した」と言う記事を読んだ事があります。これが現実に歴史であったのです。日本が中国大陸や朝鮮半島や東南アジアに侵略戦争をしたことは、私たちが思っている以上に被害にあわれた国の皆様が強い怒りと怨みを持たれることは当然と言えます。仏教は、インドで成立した非暴力主義の教えを説いた宗教です。具体的には「生き物を殺してはならない。他人に殺させてはならない。他人が殺すのを認めてはならない。」(『スッタニパータ394』)と説かれています。また極東軍事裁判でインドとスリランカが日本への賠償請求を放棄する根拠にしたのがお釈迦さまの言葉です。その内容が「実にこの世において、怨みに報いるのに怨みを以ては、ついに怨みの消えることがない。怨みなき心によってのみ怨みは消える。これは永遠に変わらぬ真理である。」(『法句経』)この教えを心に定め、他国から言われることなく、戦争を経験したことがない私たちも過去の歴史を学び、二度と戦争を起こさせないよう私たちができることは「何か」を考えなければならないと思います。怨みに怨みで報いれば怨みは止まらない。武士の子であった法然上人が出家されたのは、「仇討ちをやめ、私の菩提を弔い、また自らも悟りを得なさい」と言う父時国公の遺言です。(お前が仇を討てば、相手もまたお前を恨みに思い、仇は代々尽きることがない。)今の世界で行われている戦争は、イスラム国やアフガニスタンでの無差別殺戮やテロを終わらせる大儀のための正しい戦争ならよいという考えならいつまでも戦争は終わることはないでしょう。現実は軍事力の均衡によって平和が保たれる事も確かです。しかし私たち仏教に関係するものは、暴力を除くあらゆる手段と対話で、平和を願い訴え続けていくしかないように思います。人種・政治・文化・経済が違う国々が互いに認め合うことができる相手を思いやる心が必要であるのではないでしょうか。パリテロ事件で、妻を亡くされた男性が、悲しみ憎しみを乗り越え、イスラム国の犯人に対して、「決して君たちに憎しみという贈り物をあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈したことになる。と憎しみを否定、最後に私(妻を亡くされた男性)と息子(2歳)は二人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。とメッセージを公表されました。これは人間としてもっとも強い心と勇気ある言葉であり、敬意と哀悼の意を表したいと思います。

 

 

 

 

お寺あれこれ 5

この時期は、参道の一角である牡丹に肥をやる時期です。以前は剪定の時に造園業者に秋か年末に庭の剪定の時に、一緒にバークをまいていましたが、それだけでは年々牡丹の木が弱ってきたので、ここ2年ほど住職が肥をやっています。以前から剪定する際には造園の職人さんと一緒に作業をしていましたから、だいたいの事は見よう見まねで庭の剪定はできるのですが、やはり美的感覚がないと木の形と庭全体のまとまりが今一つ納得がいかなく造園業者(職人さん)に頼んでおけばよかったと、後悔することがよくあります。経費面を考えると住職自身がやらないとどうにも回らないわけです。造園さんには、十五年以上お世話になってますが、近年剪定する回数を少なくすることや樹木によっては隔年にしてもらい、申し訳ない思いで庭の剪定をお願いをしています。また先代から境内にボタンを咲かせていますから、やめるわけにもいかず、なにも知識がないわたしが世話をしていますので、大きな花が咲きません。でも楽しみです。天気がよければ、今週中に肥料をやる予定です。牡丹の咲き頃は4月20日頃から1週間ぐらいです。